「あー、それはコロナでだめなんです。今はマスク外したらダメで飲食はしないように言われていて、だから申し訳ないんですけどお料理も今はしてあげられない決まりで」
「そうみたいねぇ。孫が来たみたいで嬉しいのに残念だわぁ」
「ありがとうございます。私、便利屋さんですから、今出来ることはなんでもしますよ」
私が言うと、曽田さんはゆっくり考えた。
「じゃあ今日はその扉の向こうの掃除機かけとお風呂場の掃除をお願いしようかしら。本当は話相手が欲しかったんだけれど、今の時期じゃなかなかねぇ。感染するのは若い人から高齢者にっていうばかりじゃないでしょう?私からあなたにうつることもあるものねぇ」
なんと返したらよいのかと思いながら、そうですねぇ、と言った。曽田さんにはテレビでも見ていてもらって2時間でできるだけの掃除をしてしまおう、と袖をまくった。
その扉と言われた扉を開けると、黒い椅子と、それぞれに小さな洗面台が作られていて、一目で美容室だったのが分かった。中に入ると、マスク越しでも分かるほど古い匂いがたちこめていた。もう何年も人が入っていないような雰囲気で、窓を開けようと動かしたカーテンから埃が舞って、入り込んだ陽射しにさらさらと溶けた。
イスはひび割れていて、中の黄色い綿が飛び出している。部屋の真ん中に段ボール。ちらっと中を覗くと、ギフトの箱に入ったタオルが詰められていた。足元はタイルがジャリジャリとしていて、足の裏を見ると埃で靴下の色が変わっていた。
曽田さんの掃除機はコード式で重く、なかなか吸い取らない。やけに掃除機がうなるので中をあけてみると紙パックがお腹いっぱいという状態だった。ポケットからスマホを出して、次回買い物紙パック、とメモした。
部屋の隅には、70リットルのゴミ袋がいくつも並べられていた。中には、黒っぽいシャツや白いブリーフらしきもの、ラクダ色のズボン、昔よく実家でズボン下と呼んでいたものと同じような服がぎっしり入っていた。もしかしたら亡くなった旦那さんのものなのかもしれないと思い、じっと見た。
10年、30年前は全然違う生活だったんだろう、と思った。
旦那さんがいて、夫婦で美容室をやっていて、もしかしたら子供たちもいて、犬や猫を飼っていたかもしれない。毎朝掃除機をかけてごはんを作って、お客さんの髪を切り、賑やかな家だったんじゃないだろうか。
そんなことを思いながら、住居のほうのお風呂場へ向かう。
ドアを開けると、洗面所に脱衣所があった。壁が生乾きの洗濯物のような臭いを発している。洗面所の鏡は跳ねた汚れがこびりついて、くもりガラスのようになっている。洗面台は、赤いバラが黒ずんできた時のような色をしていて、置いてあるブラシには髪の毛がここぞとばかりに絡まっている。
浴室を開けると、もわっとした空気が溜まっていた。ふわっと、懐かしい匂いがした。靴下を脱いで室内に入ると、冷たい床に心臓が跳ねる。懐かしさの理由を探す。タイルの色じゃない、蛇口の形じゃない、石鹸じゃない…あ、シャンプーの匂いだ。
ふと、昔の記憶がよぎる。
雪が降ると雪かきが大変な屋根、おじいちゃんとお父さんがスコップを持って、おばあちゃんが下で見上げる。マフラーをぐるぐるに巻いて、制服の下にジャージのズボンを履いて学校へ向かう。