やがて、別のスタッフに促されてシャンプー台まで移動して、座れば椅子の背もたれが倒れて、顔にタオルが掛けられる。あーもう、わたしのこんな恥ずかしい顔を隠してくれてありがとう。温かな湯で頭の中にこびりついた恥ずかしい記憶を引き剥がすように、しっかり指先で頭皮を洗ってくれてありがとう。気持ち悪いところないですか?と聞かれて、てか、わたしのすべてが気持ち悪いんですが、とか思わず言いそうになってごめんなさい。こんなハズいわたしでごめんなさい。すべて丸ごとごめんなさい、てか、もう、えーい、こんなわたしよ、いなくなれ、いなくなってしまえ、とかなんとか、そんなことを頭の中でいろいろとぐるぐるさせてるうちに、いつの間にかシャンプーの圧倒的な心地よさが頭ごと飲み込んで、なんもかんも排水溝へ流し去っていって、そしてわたしは本当に無になった。
それから。
髪をブローされて、その後に見つけた鏡の向こうのわたしは、わたしの知ってるわたしではなく、もうすでに別の人だった。背中まで伸ばしていた黒髪は、思い切って肩に掛かる程度のミディアムに切られ、光が透けるようにキレイなピンクブラウンに染まっていた。毛先はゆるく巻いたカールをほぐして、軽やかに遊んでいて。そこにいるのは真っ黒な重たい髪でグズグズ妄想ばかりしてた高校生のわたしじゃなかった。そうだ。今のわたしはもう、女の子じゃない。ひとりの女性になったのだ。
やさしいやまちゃんはせっかくだからと、サービスでうすくメイクまでしてくれた。軽くベースを整えると、頬には春らしい桃色のチークをさっと入れて、震える瞼にはアイラインをそっと引いていく。そうするうちに、頭の芯のあたりがぎーんとしびれるような感じがしてくる。まるで神社でおはらいされてるような、魔法でもかけられてるような。そんな風な、なんだか神聖な感じが身体を包んでいく。
「ほら、もう大丈夫。見てごらん。今日のミサキちゃんは、あたしが今までで一番かわいくしといたから」
わたしに手鏡を渡しながら言うこれは、髪を切ってくれるたびにやまちゃんが呟くお決まりのセリフだ。もちろん仕事なんだからお世辞だろう。誰にでも同じことを言ってるのは、わたしだって知ってる。でも、この言葉には毎度毎度、心がこもってた。本気だった。そのことに今までどれだけわたしは救われたことか。
「あ、ちょっと待っとって」
おもむろにやまちゃんはそう言い残すと、足早にカウンターレジのほうに歩いていった。でも言われたわたしはまるで上の空で。恥ずかしながらそれくらい、やまちゃんの手によって見事に変身を遂げた自らに、ぼうっと見入ってしまっていたのだった。
だから、去り際に、ふと添えられた「じゃ、がんばってね」という一言の意味なんか、そのときは当然、考えもしなかった。
するとカラカラとドアベルが鳴り、やまちゃんと入ってきた客のやりとりが聞こえてきた。
あー、いらっしゃい。ごめんねー、急に電話して。ちょうどキャンセルが入って予約が空いたもんやけん、そう言えば、早く切りたがっとったなーと思って声かけてみたとよ。
いやいや、ありがたいっす。やまちゃんはいつも人気やし、予約が先になるのはしょうがないって思っとったけん、さっき電話貰ったときは超ラッキーってなって。もう、ダッシュできました。
そうなん?ごめんねー、急がせてしまったね。そう言えば東京に行くんやって?
そうなんすよー。やまちゃんにもう髪切ってもらえんごとなるのは寂しいすけど、とりあえず都会人にナめらんごと、バシッとカッコイイ金髪でお願いしゃす……。
わたしはブワッと全身に鳥肌が立ってしまい、その場で固まってしまった。え?なんで?なんで彼がココにおると?どういうこと?