バランスを崩しかけて後ろに倒れてしまうかと思ったところで立て直すと、失敗をごまかすようにして、変なの! 変なの! 変なの! と、タケルの周りをぐるぐる回りながら勢いよく走った。アスファルトを踏みしめ跳ね上がり、ダダンと不規則なリズムを奏でると、ブンブンぐるぐる腕を振り回す。すばしこく大げさでうるさいことこの上なかった。捕まえてほしいのかと手を伸ばそうとしたが、女が見ている。変質者だと思われてはいけないと思い直し、宙に浮いた腕を引き戻した。それを合図にますます調子に乗ってからだを揺らすものだから、頭がブン回り帽子が転がり落ちた。拾ってやると、利発そうな顔がパッと明るくなった。二人の目が合い、子供が笑った。青空がそのまま張り付いたような澄み切った瞳が、タケルに向かう。タケルは広い世界にただぽつんと丸裸で晒されているような気分になった。愛しいような、いたたまれないような胸の痛みを悟られぬよう、自分を見上げたやわらかい唇がことばを発する前に目をそらした。それから、世界のすべてを秤にかけるかのようにして、現在地点の高度を確かめる。
変なの! と言いながら男の子がタケルの手元をしきりに覗きたがる。何気ないふりをして分度器を見せてやっても良かったが、変だと囃し立てられたものだから、少し気を悪くしていた。
まごついている間に子供はまたもブンブンぐるぐるを始めようとする。
昔は小さい人たちでいっぱいだった屋上遊園地には、今やその名残もない。タケルは子供の扱いが得意ではないから、彼らが来ないのは好都合だった。急に泣いたり騒ぎ出したり、およそ言葉が通じない。今だって持て余し、母親らしきその人がすみませんと頭を下げて立ち去ろうとしている。
ほら、去った。
と、10メートルほど離れたところで、男の子がこちらに駈け出そうとして阻止された。タケルがさっと手を振ると、再びブンブン腕を振った。が、羽交い絞めにされ、ぐるぐるも封じられた。女は思いがけず屈強だった。捕獲された子は身をよじりながら、僕も高いところに行きたいと絶叫した。おお、少年! 屋上で待ってるからなと、気取って敬礼してみせたタケルは自らをヒーローみたいだと思った。怪獣ママゴンに捕まった可哀想なN少年。いつかその腕を引きちぎり天空に飛び立つのだ!
そう、ヒーローは別れ際も潔い。襟を正し背中に感じる視線を振り払い、角を曲がり坂道を上る。誰もいないのを確認すると、タケルはスペシウム光線を決めた。そして、再び右手をこめかみに沿わせ勢いよく振り上げてすぐに下し、自分も結婚していたら自分にもあのくらいの年の子がいてもおかしくないよなとすこし思う。
屋上の端の喫煙所に、田中さんを認める。田中さんは気が付くとそこで煙草を吸っている。閉園まで何をするでもなくぼんやりと掛け、遠目に観覧車を眺めている。灰色がかった姿の、田中さんと言う名は、タケルが勝手に付けた。殆ど終日居るものだから、風景の一部のようになっていて。駅のロータリーにも似たような年寄りが始終たむろしているが田中さんはいつも独りだった。
ワンカップをすすったりたこ焼きをつついたりするグループが、植え込みのあたりを占拠する。安い酒は安いカップに波打ち、たこ焼きは青のりを旨くした。西側の海で採れたアオサが、乾燥して、詰められて、東で花開く。沖合に舟歌をうなる婦人の、汗をぬぐいながら袋詰めする姿をぐるんと丸め込み鉄板で転がす。酒すする音、たこ咀嚼する音、タバコの煙の織り交ざる、輪郭のぼやけた一帯。彼らはもれなく子供や孫のおさがりを身に着けていた。サイズも色もちぐはぐなのに、くすぐったそうに着、男子学生さながらに戯れていた。野球の話をして、投球フォームを真似、監督に文句を言った。ひとしきり盛り上がると次は競馬の話をし、フランス人騎手の勝利インタビューを揶揄し、サイレンスズカのことをちくちく語り、誰かが競馬で身持ちを崩したとため息をつくと、男たちはだらしなく口を開けて笑い、中山競馬場の焼きそばが旨かったと言うと府中の豚汁にはかなわないと言い、駄馬からコンビーフが出来るという噂をし、一番はげている男が新宿の場外馬券場の窓口のおばさんと寝たことがあると自慢した。「そのあと、大井競馬場に一遍だけ一緒に行ったんだよ」。ロータリーに馬券が落ちていないのが不思議なくらいだった。タケルは信号を待つふりをして、しばらくの間、そこに立っていた。そして、こんな風にはなるまいと思った。冴えなさが冴えなさを招き、不幸は不幸に連鎖する。類は友を呼び、つるんでいるあいだに我も彼も見分けがつかなくなってしまうだろう。翌日のタケルはしかし、たこ焼きを買う。うらやましかったわけではないぞ、と、誰に宣言するでもなく、しかし、言わずにはいられない気持ちでたこ焼き屋に並ぶ。店員がたこ焼きを突き出した。ソースの香しさが全身を包む。これが似合うのは屋上だと思い、タケルはまた百貨店へ向かう。風受けながらのたこ焼きは良い。はらりと舞うかつおぶしも光を映して美しくあるはずだ。墓標と共に街を見下ろしていただく。ロータリーに腰掛けなかっただけタケルの矜持は保たれる。たこ焼きは大勢でつつく方がきっと美味しいのだろうと思うが、しかしこれを西川さんと分けたところで自分の取り分がすくなくなるだけと思う。屋上からの景色はいつもと変わらない。非番の今日も富士山は遠く霞んだままである。たこ焼きを食べ終えると、舟型の器をゴミ箱へ押し込んだ。口の周りにまでソースの味が残る。ジャンク最高。西川さんの総菜屋には何でも並ぶがたこやきはないよなあと思う。喫煙所に寄り、ホタルノヒカリに耳を澄ませて地階へ下る。海底にダイブすると、売り場の西川さんに片手を上げて挨拶をした。