タケルは目を閉じて息を止める。東京湾の海面が標高0メートルで駅前の標高は3メートル。エスカレーターのまさにこの位置が海面だ。浸水。目を開けて、地下2階まで潜る。水深2メートル、5メートル。7メートル……パン屋の香りを吸い込んで、和菓子屋の通りを横目に、漬物屋を右に曲がる。いらっしゃいませ。いらっしゃいませ。さようならを告げたばかりのタケルには今しがたまで屋上に居たことがしらじらしく思える。感傷に浸る間はない。百貨店の地階には活気が満ち、これからが本番だと閉店時間まで疾走が続く。水深。10メートル。酸素が足りない。鼻腔を広げればおしろいのにおいがして、しょうのうのにおいがして、コーヒーのにおいがして、お惣菜のにおいが胃袋にまで滑り込んでくる。海底の売り場は、全くけしからんものだといつも思う。寿司屋のネタは整然と、魚屋の近海魚は居心地よさそうに横たわっている。まぐろのあたまが天井を向く。タイの鱗はかっこいい。シャコなるものはどうみても虫だなあと思いながら、生えそろう足先のつんと澄ました様を遠めに見る。惣菜屋に帰り支度を済ませた西川さんを見つけて声をかける。コロッケを一つ買おうとするが西川さんが右手で制した。ノー、ノー。今日も風呂敷包みをこっそり手渡される。
帰りは途中でジムに寄る。
標高7メートル。
ジムでは先ずシャワー。そしてサウナ、風呂。弁当。汗を流したら、濡れ髪のまま休憩室で風呂敷を解く。タッパーには、メモ書きが添えられている。肉じゃが、きんぴら、いわしと旬野菜のマリネ。走り書きだが達筆だ。大抵は、その日の惣菜の名前と説明で、タケルは地名や特産品、それと体に必要な栄養素だとかにいくらか詳しくなった。メモの最後は頑張ってね、と結んである。惣菜は味が混ざらぬようアルミホイルで仕切られている。タケルはマイ箸と売店で買ったおにぎりを取り出し、手を合わせていただきますと声にした。ジムでは運動をしたことがない。ただ風呂に入るためだけに来ている。石鹸、シャンプー、タオルは使い放題で、しかも天然温泉ときた。洗い立ての顔もつるつるになる。タケルのアパートには風呂がない。自炊もしないからガスは解約した。寝るためだけに帰る部屋。ジムの月謝が銭湯に通うより安いと気づいてからは、毎日温泉だ。このあたりの湯は黒く、はじめは汚れているのかと思って驚いたが、黒湯という種類と知った。
いわしを咀嚼しながら、西川さんへの返事を考える。
いつもありがとうございます。
ごちそうさまでした。
美味しかったです。
他に気の利いた言い回しが浮かばない。またお願いします。お肉を沢山食べたいです。僕は魚より肉派です。特に白く甘いところが好きです。食べきった肉じゃがの味を反芻しながら西川さんを想う。肉はもちろん、肉の旨味を吸ったしらたきも美味かった。佐賀牛のバラと書いてある。実家の肉じゃがはいつも豚肉だった。しらたきと芋で絶妙に嵩を増してあって、おにぎりが進んだ。タケルは西川さんの惣菜屋で買い物をしたことがない。バイト代が出たら買ってみようと思う。だが、いざとなると持ち前の貧乏性が邪魔をする。今度沢山買いに行きますと書きかけてやめた。
「ごちそうさまでした。今日も美味しかったです」