誰もいないはずの喫煙所にスマホを構えた女性が座っていた。「あ」。タケルは彼女の写真に写り込んでしまったらしい。咄嗟に互いが身を引いた。スマホを降ろし、聞き取れないほどの声でこちらこそごめんなさいと言った彼女は思いのほか幼かった。ためらいがちに一枚だけ撮り直すと、彼女はリュックを掴んでエレベーターホールへ駆け出した。
「待って、カギ閉めちゃったから」
タケルは彼女を追いかけた。扉を開け、ボタンを押し、墓守らしくおごそかに咳ばらいをした。ホールには空調とエレベーターのモーター音だけが響いている。エレベーターが到着するまでの間、女はスマホに視線を落とし、じっと身を縮めていた。
さようなら。
彼女を見送り喫煙所に戻ると、タケルはポケットから取り出したタバコに火を点けた。一日六時間、週五日勤務。最低賃金。何の資格もいらない誰にでも出来る仕事。手当なし。ボーナスなし。やりがいなし。未来なし。持ち場はタケルのほか三人で回す。総務の鈴木さんを除けば、全員アルバイトスタッフだ。
煙草をもみ消したタケルは灰皿を指差して、消火よし、と唱え、ごみを集めて(集めるほどのごみはしばらく見ていない)、遊具にカバーを掛けて回る。非常灯を残して、明かりを落とすと、ずんと海底に沈みこんでしまったかのような錯覚に陥る。冬を待つこの季節の暮れは早い。
貨物用エレベーターに乗り込み、地階の事務室で鍵を返す。鍵貸借記録用ノートに返却時間を記入すると、守衛の井上さんが「おおおおおつかれさまです」と言った。大大大疲れ様です。タケルも挨拶をして更衣室に進む。整理整頓、挨拶励行の文字が出迎える。小狭いロッカーがびしりと立ち並ぶ部屋には窓がなく、体育館倉庫のような匂いがする。ここには風が入らない。作業着を脱いでハンガーに掛け、丸めて放り込んだカーディガンを伸ばす。出入口に据え付けられた大きな姿見が、ティーシャツ姿をまっすぐ映す。マドノユキ。しらじらした蛍光灯の照らす顔は不健康で、すこし前に出た腹と細い二の腕が頼りない。息を吸い腹を引き、腕に力を込めて顔をつくる。髭でも生やすかと思うが、似合わないだろうと思う。タトゥ、無理。無理。履き古したジーパンがひやりと肌に張り付いた。作業服と同じ色のキャップを脱いで黒色のニット帽をかぶり、カーディガンを羽織った。忘れ物よしと指をさし、ロッカーを出てタイムカードを押す。
18:00
タケルは小さな勝利を感じる。
もはやこれだけをたのしみに働いているとさえ言ってもいい。タケルはタイムカードに並ぶ同じ数字を確認して棚に戻した。そこで、いつものように食品売り場で働くパートのおばちゃんに「山野さんおつかれ」と声をかけられる。タケルは「西川さん、これ」と昨日のタッパーと風呂敷を返す。
「あとで売り場においで」
職員通用口にカードをかざして一旦外に出る。それから、表に回って百貨店の正面玄関から入ってエスカレーターを降りる。
ここから、海の中だ。