それから通い詰めることとなった居酒屋で酒をたくさん飲む正文であったが、やはり達夫の血のせいか、店主が、もう帰りなよ、いい時間だよ、と窘めるほど遅くまで飲んでしまうことも多く、子供の面倒もろくに見ずに平気で夜中や朝になって帰宅する正文に、透子は何度も改めるよう注意していた。そのたび反省して、次はちゃんと帰ろうと思う正文だったが、楽しく酒を飲んでいるとどうしても歯止めが利かなくなり、結果として透子を何度も裏切ってしまった。次第に鬱憤が溜まりに溜まって、やがて呆れ果てた透子は、ある日娘の優香に向って、ごめんね優香、と言い、荷物をまとめて家を出る準備を始めた。優香はどこか遠くに行こうとする母親の姿を見て、泣きながら後を追おうとしたが、透子はそれを、少しいなくなるだけだから、ほら、ひいばあちゃんのとこ行って、と一緒に住んでいた正文の祖母といるよう聞かせた。透子と仲の良かった義祖母は、透子に、ごめんね透ちゃん、待ってるから、いつでも戻ってきて、とだけ言って、駅に向かって歩いていく透子を見送った。一方の正文は、その日も相変わらず昼間から仲間と飲んでいて、夕方になる頃にはもうべろべろに酔っ払い、今にも妻の透子が家出しようとしていることなどは知る由もない。仲間たちと馬鹿話をしてげらげら正文が笑っていると、店の入り口のドアがガラガラと音を立てて開いた。見ればそこに優香が立っている。何事かと思って、ふらふらと千鳥足になりながら優香のもとに行き、おい優香、どうしたんだ、と言ってへらへらと頭を撫でると、優香が今にも泣きだしそうに、お母さん、電車乗る、大きな荷物、と言った。正文は口をぽかんと開けて、何事だ、と理解できていない様子だったが、娘の真剣な目つきと、その目に映る自分の姿とに、小さな頃に出て行った母親の映像が思い起こされ、優香、お母さん、今どこだ、と大声で尋ねた。それからすぐに勘定もせずに店を出て、優香に手を引かれよろよろと左右に体をよろめかせ、走っているつもりかもしれぬがまだ小学校低学年の優香よりも遅いスピードの正文に、優香はひどくイラつきながら、は、や、く! は、や、く! と声が枯れるくらい大きな声をだし、引きずるように駅まで正文を連れてきた。駅のホームまでなんとか辿り着くと、もうまもなくやってくる電車を待つ透子がいた。家のどこにあったのかと思うくらい大きな鞄の中に、目一杯に荷物を詰めて立ち竦んでいる。それを見た正文が、「透子!」と大声で叫ぶと、その声に透子が振り向いた。ふらふらになりながら透子に近づいていく正文とその後ろに優香。ごめん透子、ごめん、本当にごめん、と膝をつき土下座して、泣きながら謝る正文だが、もはや飲みすぎた酒のせいで地面に倒れこんでいるのか謝罪の一心で頭を地面につけようとしているのかも判別できない始末で、おえっ、うっ、ごめ、本当にごめん、と喚き、それはもう本当にひどい有様であった。それを見下ろす透子は、何分かそのまま正文を見てから、すっと膝を曲げて正文と同じ顔の高さまで下がり、正文が顔を上げて透子を見た瞬間に、思いっきりビンタした。思いっきり頬を叩かれた正文は尚のこと泣き喚いて、透子ごめん、許してくれえ、もっと思い切り殴ってもいいから、もう絶対お酒も飲まないから、と懇願する正文に、透子は呆れたように溜め息をついてから、正文を素通りしてから優香のことを抱きしめ、優ちゃんごめんね、心配したよねえ、と言って、ありがとうね、ごめんね、と何度も言った。優香はわんわん泣きながら、お母さん行かないで、と何度も言っては号泣していた。それを茫然と眺めている正文は、涙を拭いながら、膝を地面につけた状態のまま正座して、握りしめた両手を腿の上に乗せてじっとしていた。透子が待っていた電車がやってくると、透子も立ち上がり、優香の手を引いた。電車のドアが開くと、透子はそれに背を向け、駅の改札のほうへ優香を連れて歩いていった。そうして後ろをまた振り返り、そのバック持ってきてよ、すごく重いんだから、と正文に言ってまた歩き始めた。それを聞き正文は慌てて立ち上がると、地面に置いてある鞄を手に取ってよたよたと力なく彼女たちの背中を追って歩き出した。この件があって以来、正文は透子にも優香にも、まったく頭が上がらなくなり、肩身も狭くなった。それでも二人が一緒にいてくれてよかった。本当によかった。それに、実はお酒もやめなくて済んだ。お酒をまったく断つことは透子の温情措置により免除してもらえた。ただし、かならず透子の許可を取って飲むことと、何かお酒のせいで約束を破った場合は二度と飲めなくなるという誓約書付きで。あれから二十数年経ったが、まだ正文はお酒を飲むことができている。そのときのエピソードは、正文が酔うと必ず泣きながら話しだす鉄板ネタになっている。