それから数年が経ち優香が生まれる。正文と透子は、一人娘の優香を溺愛し育てたが、ろくでもない父から生まれた正文もまたろくでもなく、女癖こそは正文のシャイな性格からか、悪いも何もないくらい透子を除くと色恋とは無縁だったが、酒癖の悪さはばっちりと受け継がれていた。正文は結婚後、父達夫が行きつけだった居酒屋に足繁く通うようになり、早くに亡くなった故人達夫のことを店主や常連客と話していた。達夫は正文が二十歳になってすぐに急逝していた。急性の心筋梗塞だった。実は真紀子が出て行ってから、達夫一人では正文の面倒を見ることができなくなり、同じ蒲田にある祖母の家に引き取られ、正文はそこで学生時代の大半を過ごした。父の達夫とは、ごくたまに実家である祖母の家に達夫が帰ってきたとき、よう正文、元気か、とまるで親戚の子供に声をかけるくらいの距離感で話しかけてきて、それに一言か二言か正文が返答するくらいで、関係は希薄だった。だから父親が死んだときも、まだ成人したばかりの正文は、形ばかりの喪主を務め、達夫の叔父や叔母、または達夫の知人らしき人が参列する中、ただ茫然と彼らや彼女らが涙を流すのを眺めた。そんな中、父親達夫の生前の話を聞かせてくれたのが、正文が通い詰めるようになった居酒屋の店主や常連客だった。初めて店にきたとき、ねえあんた、たっちゃんの息子じゃないか、と声をかけられ、たっちゃんとは誰のことかと一瞬思ったが、店主の顔を見て、葬式に来ていた人だと思い出した。店主は、正文が店に来たことをひどく喜んで、目を潤ませながら、元気かなあ、たっちゃん、息子が酒飲みにうちの店に来たなんて言ったら、びっくりするよ。と言った。正文とすれば達夫は母親を自分から奪い、さらには自分を捨てたともいえる憎むべき父親なので、達夫の話を聞いてもいい気分ではなく、すぐ店を出ようかとも考えたが、店主がたっちゃんたっちゃんと話すのを聞いた横に座る男が、酒に酔った真っ赤な顔で、なんだいあんた、達夫のせがれか、と声をかけてきて、また違う席からも、あれま、お兄さん、たっちゃんの息子なの、と続けて声をかけられる。そうなるともう周りの客たちがこぞって、あれあれ、と驚いて話しかけてくるので帰りづらくなった。正文は急に自分に注目が集まったのが恥ずかしく、何と応えればいいのかも分からなかったが、話しながら酒を飲んでいるうちに段々と緊張も和らいできて、いつの間にか自分を中心にして出来た輪の中でげらげら笑いながら、周りの客がする達夫の昔話などを聞いていた。実の父親でありながら達夫のことをほとんど何も知らなかった正文は、皆が楽しそうに話す達夫の酒場での失敗談や、数ある恋愛話などを聞き、新鮮な思いだった。達夫がひどく酔っ払って、店に入るなり、おでんの鍋をトイレと勘違いして小便をしようとして店主に思いっきり殴られた話や、お店で働いていたアルバイトの女の子に本気で恋して、仕事中なのに連れ出そうとしたがこっぴどく振られた話などを聞き、大いに笑いながら、正文は笑いすぎて目から涙が流れてきて、止まらなくなった。どうしたんだよ、そんなげらげら笑って、泣くほど笑うことかい、と店主に言われたが、笑いも涙もしばらく止まらなくて、あんまり泣き出すもんだから、周りも気味悪く思って、こりゃあおかしくなっちゃったね、やっぱり達夫の息子だよ、と呆れられる始末で、正文は、いやあ、なんか、なんかね、と人差し指で目頭を何度か拭うのが精一杯だった。