残業した帰り、亜希子は夜桜を眺めつつ本屋へ行こうと駅とは逆の方向へ足を向けた。
眼下の桜の下にはまだ缶ビール片手にサラリーマンの姿がちらほら見えるが、通路にはほとんど人影がない。目の前を見たことがあるようなワンピースが通り過ぎたと思ったら、瑞穂だった。
隣りには、ヒールの低いパンプスを履いた瑞穂よりも小柄な男性がいた。瑞穂達が通路を左に折れ、見えた男性の横顔には見覚えがあった。
亜希子と瑞穂が数ヶ月前に共に通い始めた翻訳の専門学校の講師であり、妻子ある人だった。
見なければよかったなと亜希子はもと来た通路を戻り重い気持ちを引きずりながら帰途についた。
「やっぱりうまく行かないよね。」
瑞穂がそんな言葉を口にするようになり、亜希子のほうを見て
「もし、彼と駄目になったら、一緒に暮らそうよ。」
と本気ではないだろうが冗談でもないようなまっすぐな目でいう。
瑞穂は翻訳の学校を辞めてしまった。とっくに辞めていてもおかしくない亜希子はまだ続けていて、成績優秀な瑞穂はあっさりと辞めてしまった。
自分の実力では通用するかどうかわからないが、遠い将来、小遣い稼ぎ程度でもいいから翻訳の仕事がしたいと漠然と思っていた。
亜希子の思い描くイメージの中では、結婚して子供もいて会社も退職して、その末の話だ。歳をとるにつれ時の経つ速さは増していくのにそれを上回る速度で追い越さなくてはならない。
何かをつかみとりたいと思っても、度胸のなさ、自分を覆う殻のかたさが邪魔をしているのだろうか。
葉桜の景色の中に風が早くも湿り気を含んだ夏の始まりを感じさせる空気を運んできた。
天気予報のニュースが今年の夏は猛暑になる予測を伝えていた。
翻訳の学校を通じて知り合ったイギリス人のマークが、日本人の彼女と結婚することになり、学校の仲間とお祝いパーティをすることになった。
マークは仕事を見つけるために彼女と帰国し、しばらくは向こうに住むということでフェアウェルパーティーともなった。とりあえずは最後だからと瑞穂も誘って待ち合わせ先の居酒屋へ向かった。
マークは日本の文化、マンガとかアニメに魅かれて日本を訪れ、派遣の英会話講師をしながら生活していけるだけの定職を得たいと翻訳の学校にも通っていたが、すぐには仕事が見つからずイギリスで仕事を見つけるという。日本語が達者で気さくで人の好い青年である。
「亜希子も瑞穂も一流の安定した企業に勤めていていいね。僕なんて逆立ちしても入れないよ。旦那さんを養えるね。」
「一流企業ということはないけど。養うにしてもまずは旦那さんを見つけないとね。」
亜希子がいうと、
「いつも下を向いて歩いてるんじゃない?前を向いていればそういう人にぶつかるでしょ。」
前を向いているつもりなんだけど。もがいているつもりなんだけど。仕事は辞める理由がないから続けているともいえる。
「わびしいとかせつないとか言う前に物足りない気持ちがあるなら行動しなきゃ。」
他の人と話していたマークの彼女がこちらにやってきた。