思わず、熱い感情が渦になって込みあげてきた。
「神様が見つけやすいように、一番上に飾ろう」仁科さんは椅子の上に乗って、クリスマスツリーのてっぺんの星に短冊をくくりつけてくれた。
「…ありがとう、仁科さん」込み上げそうな涙を堪えると、声が掠れた。幾千の慰めの言葉より、的確な助言より、遙かに救われた気持ちになる。
ツリーに飾られた一片(ひとひら)の水色の短冊が、視界いっぱいにあたたかく滲んだ。
予定よりも30分早く店を閉め、仁科さんは奥さんと私を散歩へ誘った。奥さんは、パーティーの準備で忙しいからと店に残った。
60歳年上の老紳士とのクリスマスデートも悪くないなと、奥さんには少々申し訳ないことを思いながら呑川沿いを歩いた。
「あいつ、ぎっくり腰が重症で、今日も寝たきりだって。今夜の演奏も無理だな。…そう言えば、年明けには、東急プラザの屋上で正月コンサートをやるし、2月14日は、サンロードでバレンタインコンサートをやるから、是非聴きにおいで」
頷きかけて、ふっと妙案が脳裏を掠め、悪戯めいた顔で「嫌です!」と、きっぱり断った。呆気に取られる仁科さんに向かって、にんまりほくそ笑む。
「お客ならお断り!ヴァイオリニストのピンチヒッターとして、今夜もシルバー五重奏(クインテッド)にまた飛び入り参加させてくれるなら、是非とも喜んで!」
仁科さんの窪んだ目が、まん丸く見開かれた。そして、芝居がかった口ぶりで大仰そうに口を開いた。「シルバー五重奏(クインテッド)には思い当たる節はないが」
…え?
「でも、プラチナ五重奏(クインテッド)なら、いつでも飛び入り参加大歓迎だ」
仁科さんは、茶目っ気たっぷりにニヤリと笑う。ぷっと噴き出してしまった。
「是非、プラチナ軍団に仲間入りさせて!」
「その代わり、一つ条件がある」きゅっと顔を引き締め、厳かな口調で切り出す仁科さんを見て、俄かに緊張感が走った。「…な、何ですか?」
「バレンタインコンサートには、四人のプラチナ紳士にチョコレートを差し入れるべし」滑舌の良過ぎる朗々たる叫びに、思わず大笑い。
「八十過ぎても、バレンタインにチョコって欲しいもんなんですか?」
「生涯青春、生涯現役。何歳になったって、男は少年の心を忘れないもんさ」
「じゃあ、チョコの前にまず、お正月コンサートには、仁科さんの孫のような私にお年玉を下さいね!」ささやかな意趣返しをすると、仁科さんの口はあんぐりと開かれ、次の瞬間、その空洞から大声量の呵々大笑が飛び出した。
「こりゃ、一本取られたな。よーし、お年玉は大サービスして、可愛い孫には特別に、『純喫茶コンチェルト』の特製ブレンド十杯分の珈琲無料券をあげよう」
「それなら、ケーキ無料券の方がいい!奥さんのケーキ、超おいしかったもん!」
「何(なん)と失敬な!失礼な若者だな」仁科さんは旋毛(つむじ)を曲げて、私はけらけら笑った。こんなに屈託なく心から笑ったのは、一体いつぶりだろう。思いきり声をあげて笑うことは、お腹の底から声を出して歌うことと同じくらい爽快だった。冴え冴えと冷たく澄み切った、真冬の早朝の空のように清冽な気分だった。