「ああ、妻が描いたんだ。絵が妻の趣味でね」
「へえ、すごい!上手ですね、本物そっくり!旦那さんがチェロで、奥さんが絵画なんて、まさに絵に描いたように優雅なご夫婦ですねえ…羨ましいな」
白い花弁を青い池面に広げ、涼し気に咲き誇る夏の睡蓮を眺めながら、思わず感嘆を漏らすと、仁科さんは照れ臭そうに謙遜した。
「そんないいもんじゃないよ。睡蓮は朝陽が昇って明るくなると花が開き、暗くなると閉じるんだ。夜が来れば、ちゃんと眠る花。だから『睡蓮』って言うらしいよ」ひょうきんに舌を出す仁科さんを見て笑いながら、複雑な心境に駆られた。
夜、眠る花。健やかな眠りを失った私には、睡蓮の健全な白さが急に眩しく見えた。昼は灼熱の太陽を謳歌し、夜には冴え冴えと光る冷たい月影にその熱を溶かして眠る睡蓮は、一体どんな夢を見るのだろう。…私も眠りたい。太陽と月の光を映した水面に揺蕩(たゆた)う睡蓮のように、厳かな静謐と安息に抱かれて眠れたら…
「太陽に愛されている花なんだ」睡蓮を羨みながら、ぽろりと呟いた。
夜が訪れても眠れない私は、太陽に愛されていないのだろうか…?
「七音(ななね)ちゃんがコンサートに飛び入り参加してくれたから、辛うじて天気が持ってくれた。コンサートが終わった途端、雨が降り出した。これって、正真正銘の晴れ女だろう?七音ちゃんも充分、太陽に愛されているじゃないか」
仁科さんは眩しい太陽を仰ぎ見るように、目を細めて私を見た。その言葉は、風のように私の心に吹き抜け、渦巻いていた暗雲を一気に薙ぎ払ってくれた。会って二度目の60歳も上の祖父のような人に、不思議と自然に打ち明けていた。
「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人。…これって、まさしく私のことじゃんって、最近つくづく思っちゃうの。これでも、小さい頃は天才ヴァイオリニストって持て囃されたんだ。中学生になって体が成長すると、一回り大きなヴィオラに転向した。ヴァイオリンに比べて音域が低い分、ヴァイオリンでは出すことができない落ち着いた、渋みのあるあたたかな音色に惹かれたの」
持参したヴィオラをケースから取り出すと、適当に試し弾いた。高音楽器と低音楽器を橋渡しする仲介役のように柔らかい、艶やかな中声部の音色が店内に響いた。仁科さんは、店内に留(とど)まった残響を味わうように目を伏せて耳を澄ませた。
「十代は順風満帆に過ぎて、推薦で音大に進学したんだけど、さすが名門音大。見事に天才ばかりが集まって、自分がいかに井の中の蛙(かわず)だったかと思い知らされた。最近じゃ、思うような音が全く出せなくなって、教授(せんせい)にも見放されちゃった感じ。いくら練習しても、一定のラインから突き抜けることができなくて…二十歳過ぎて、初めてスランプというか、挫折を味わってる。それで不眠症になっちゃって…弱いよね、私、ホント情けない」
自嘲的に笑うと、私の四倍の歴史を見続けて来た深い眼差しで、黙って聞いていた仁科さんは、労るように私の頭を優しく撫でた。7年前に他界した祖父の掌を思い出し、懐かしい安心感を覚えた。
「昔から、最善を尽くしてもどうにもならなければ、後は神頼みって決まってる。幸い、今日はクリスマスイヴだろ?この際、神様にお願いしてみたらどうだい?」
仁科さんは陽気に言って立ち上がると、壁に作り付けの違い棚を次々と開け、何やらぶつぶつ言いながら、ごそごそ探し始めた。「確か、七夕の時の残りのやつが、仕舞いっ放しのはず……あった!」仁科さんが取り出したのは、七夕飾りの短冊だった。…え?なぜ、クリスマスに?
「うちは風物詩を大事にする店でね、七夕には笹飾り、クリスマスには御覧の通り、クリスマスツリーを店に飾るんだ」仁科さんはカウンターに水色の短冊を置くと、巧みに筆ペンを走らせた。流麗な達筆で書かれた墨字は…
『七音ちゃんがぐっすり眠って、いい夢を見られますように』