芳(かぐわ)しい香りが鼻腔を擽った。ブラジルのブルボン種百%、極上の豆を贅沢に使い、ギュっと少量を抽出し、究極の上澄みだけを小さなデミダスカップに注いでくれた。一口含むと、舌が悦びに陶酔した。
「おいしい…こんなおいしい珈琲、初めて」
豊潤な薫り高さ、コクの深み、適度にフルーティーな酸味、風味の膨らみ。さすがマスター自慢の珈琲。豆の品質の高さだけに依存しない、神業の技術とプロのプライド、そして珈琲への愛情が感じられる至高の一杯だった。
「そうだろ、そうだろ」仁科さんは心底嬉しそうに頷いた。
「きっとこんなおいしいケーキも初めてだと思うわ」厨房から奥さんが現れ、仁科さんによく似た笑顔でケーキを置いてくれた。
「うわあっ!おいしそう!」珈琲の何倍もはしゃいだ声をあげてしまった。珈琲もいいけど、やっぱり女子はスイーツだ。こんな可愛らしいケーキを前にすると、にやけ具合も半端ない。トナカイとサンタのマジパンがトッピングされ、苺とメロンがたっぷり乗った一人用の小さな丸いクリスマスケーキだった。
「いただきます!」元気よく言って、早速ケーキを頬張った。雪のように淡く蕩ける生クリームの柔らかい甘さと、スポンジの絶妙な弾力に舌鼓を打った。
「う~ん、おいしい!生クリームが蕩ける~、こんなにおいしいケーキ、初めて!」
「でしょ?」得意げに奥さんは笑い、カウンター内からそっくりの二つの笑顔に見守られ、他愛ない会話を楽しみながら珈琲とケーキを堪能した。
15分ほど前、13時頃。カランカランとノスタルジックなカウベルを鳴り響かせながら、私は『純喫茶コンチェルト』の扉を開けた。「残念ながら、クリスマスデートをする彼氏がいないので、おひとり様で来ました」と告げながら。昨夜のチェリスト、仁科さんと奥さんは気さくな笑顔で歓迎してくれた。
昭和モダンのレトロな純喫茶。店内はテーブルも椅子も含め、調度品は木製で統一され、木のぬくもりが漂う。ステンドグラスの間接照明で幻想的に灯された仄暗い空間の中で、橙色に点灯する年代物のクリスマスツリーがマッチしていた。
ボリュームを落とした柔らかなクラッシックの音色。バチバチっと時折混ざるアナログレコードのノイズさえ、BGMの一節に溶け込む。店内には他に、一組の老夫婦がテーブル席で珈琲を飲んでいた。奥さんはパーティーの準備をするために厨房へ引っ込むと、仁科さんはカウンター内に座りながら色々話してくれた。
シルバー五重奏(クインテッド)軍団『サンロード』は、結成30年。蒲田西口商店街アーケード内『サンロード』で商う音楽愛好者が集まって結成された小楽団で、商店街のイベント等でちょくちょくミニコンサートを開いているらしい。現在、メンバーは仁科さん以外、皆、店は子供が継ぎ、悠々自適な隠居の身なのだとか。ふと、昨夜会った祖母の顔が脳裏を掠めた。怪我をして、すっかり弱気になって塞ぎ込んでいた祖母は、一回り小さく見えた。今も尚、現役で店に出て、趣味の音楽を満喫する仁科さんは、同じ80歳でも祖母より遥かに若々しく見える。
…やっぱり、人は幾つになっても生き甲斐は必要なんだ。今度祖母に会いに行ったら、一緒に何か趣味を探してあげよう。そんなことを考えながら珈琲を飲み終えると、カウンターの壁に掛かった一幅の絵画に何気なく目が留まった。世界中で最も有名な、と言っても過言ではない名画の模写だ。
「あの絵、モネの睡蓮ですよね?」