二十年前の父を正確に思い出すことはできない。ただ目の前の父は、白髪まじりで頬もこけ、だいぶやつれたように見えた。
「ケガの方、大丈夫」
「ああ。ったく、世話ねぇよな。酒飲んで酔っ払って、ぶっ倒れて。転んだ時、頭の打ち所、悪かったみたいでよ、やれ精密検査だ何だって……」
守は紙袋から容器を出してフタを開けた。中にはうさぎリンゴがきれいに耳をそろえて並んでいた。
「木下さんか」
「病院行くなら持ってけって」
「じゃあ、ありがたく」
と、父はリンゴを頬張った。
「うまい。どうだ、お前も」
守もリンゴを頬張る。小気味よい音が病室に響く。
「お母さん、どうしてる」
「元気だよ」
「仕事は?」
「続けてる」
「デパートか」
「デパ地下。そういえば木下さんのご主人は?」
「亡くなったよ」
父はそう言うと窓の外を見つめた。
「もうだいぶ前だけどな。木下さんも杖つきながら、一人でがんばってるよ」
「遊びに来たら?」
「え?」
「札幌。羽田からすぐだよ。飛行機で一時間半」
「そうか」
「近いよ、けっこう」
「そうか、近いか」
父は言葉を詰まらせ、窓の外をじっと見ていた。
父と母が別れた理由を守は詳しくは知らないが、父は昔から酒飲みではあった。酒を飲むと気持ちが大きくなって、家にある金を持ち出してはパチンコや競馬に出かけて行く。そしてたいがいボロ負けする。守が将来大学へ行くための貯金に父が手をつけた時、さすがに母も堪忍袋の緒が切れたらしい。小学生だった守は母の手に引かれ羽田空港へ行った日のことを今でも昨日のように覚えている。あの頃の守ははじめて飛行機に乗る、それだけに胸を踊らせていた。両親の離婚を知ったのは、だいぶ後のことだった。
母はデパートの地下で惣菜を売る仕事をすぐに見つけ、やがてアパートを借りて守と二人暮らしをするようになった。父のことはいっさい語らなかったが、入学式のような節目にはたびたび父に手紙と写真を送っていたようだ。というのも、父が律儀にお礼のハガキを送るので、嫌でも守の目に入るのだった。それも「手紙と写真ありがとう」とだけ。父がたった一枚のハガキを買う姿を想像すると、何ともおかしい気がした。守には分かっていた。自分の目にも触れさせようと、父がわざとそうしているのだと。
家に帰り、父に頼まれた着替えなどを鞄に詰め込んだ後、守はようやくコンビニで買った弁当を夕飯に食べた。はたと守は箸を止めた。そもそも父の入院を母はどうやって知ったのだろう。まさか父がハガキを書いたとも思えない。それとも二人はLINEでつながっているのだろうか。父がLINE? あり得ない。守はそう心の中でつぶやくと、冷蔵庫を開けた。
「え?」
守は目を丸くした。冷蔵庫にはびっしりビールが冷えている。そしてどのビールにも空を飛ぶ天馬のラベルが。『ペガサスビール』は北海道のクラフトビール、つまり地ビールなので、関東では決してメジャーなブランドではない。なのにどうしてこんなにたくさん……。急に守はおかしくなった。息子の働く会社のビールを飲んで、酔いつぶれた父親が入院。こんなバカげた話、あるのだろうか。守は瓶ビールを一本出すと、栓を抜き、コップに注いだ。ビールは哀しいほどうまい味がした。