「この街は奇抜になんてならなくていいんです」
私はまたハッとした。カウンターで妻が可笑しそうにしていた。また沈黙が訪れることを思うと我慢ならず、私は思い切って席へと踵を返した。
「あのですね、この街は昔はもっとずっと静かでした。それをみんな忘れてしまって、今ではこう、古い街を追いやっていくような」
私は給仕用のお盆を小脇に抱えたまま彼らに言った。意に介さない様子の娘二人と、ぽかんとした父親と彼女。彼氏だけがどこか私に挑戦的な目を向けていた。
「あなたはこの街に昔からいる人なんですね」
彼が言う。すっかり若者向けのチェーンが増えた商店街で、うちの店を選び。街の外から来た彼女を案内するような若者と、勝手に好感を抱いたのが良くなかった。彼もまたこの街を変えていって、忘れていくような――。
「あの、昔の写真とか持ってませか? この街の」
彼の言葉に思考が止まった。はい?と私が聞き返す前に、父親がそれに反応した。
「昔の写真? なにかに使うんですか」
「あ、はい。 亮、一応課題の方向性は決めたみたいで」
今度は彼女のほうが答えた。会話の意味が掴めない私が黙っていると、彼氏が続けて口を開く。
「この街は、特別変わってるとかじゃない、現代の街だと思うんですよ。でもどこか懐かしい、ふとしたときに心に甦るような。気が付いたらなんとなく好きになってるような、それが魅力なんだ。きっと」
彼はおもむろにリュックサックを取り出し、開いた。そこには今の、この街が溢れていた。
「そんなこの街の魅力を描くなら、きっと「どこか懐かしい」の源泉も俺は描きたい。だってそれがあるからこの街の今があるんだ」
今のこの街を描いたスケッチ。柔らかい鉛筆の線と、絵の中の人々。それを見るうちに、茶封筒に詰め込まれた「あの頃」が重なった。
「……みたいな感じなんですけど。昔の写真とか持ってないですか」
熱を帯びていた青年の声が、もとの淡泊な調子に戻っていた。けれど私は、どこか気圧されるような思いでただ黙って頷いた。すると、ありがとうございます、と青年は私に頭を下げる。それを合図にしたように彼女と父親がわっと湧いた。
「亮がこんなに素直になにか言うのはじめてみた」
「うるせえ」
「ぜひ、あの公園も描いてください」
「気が向けばですね」
不機嫌に応対をする青年は、しかし大切そうにスケッチブックを手にしていた。なんだか眩いような思いになって、私はそそくさとカウンターに戻る。妻は、にっこりと笑っていた。
「あなた」
その手から分厚い茶封筒を受け取る。時は移ろってしまった。この茶封筒の中身は私が仕舞いこんでおく、そのくらいでちょうどいいのだと思っていた。けれど青年の言葉は。そう、たぶん失われていくものなのだ、古い光景は。セピアになる、溶ける、けれど、今ある街のその根底にある景色は。
きっと、私たちが過ごしたこの街の一部は。
いつまでも続いていく、この街のすべてに。