「亮さ」
「ん」
だらだらジュクジュク続く彼の言葉を遮ったとき、ちょうど前を昇っていた青がわたしたちより低くなった。あ、頂上だ、と亮が呟く。
「ここで暮らしてんの楽しくないの」
亮の手が止まる。ごうんごうんのなかにかすかに混じっていた鉛筆が紙を滑る音も一緒に止まった。
「あー……」
四角い建物たちは小さくて、フィギュアのように見える。ユザワヤ、とオレンジ色の文字が書かれた長方形の看板、青い鉄橋の上を走っていくワゴン車。伸びていく線路。恋人がこの春から暮らし始めたこの街について、実際のところわたしはなんにも知らない。
「……なんかね」
亮の手元がゆるりと動きを再開した。灰色の線が重なって街が写っていく。
「いろいろ、あんよ。メシだったら、作るときはここで買い物するし、作んないときはそのへんに店いっぱいあるから適当に入ってみたりとか、うん」
わたしは亮の手元と実際の街とを交互に見た。亮のスケッチはスケッチというにも粗い、メモのようなものだ。それでも彼がどこを描いているのかはきちんとわかる。ばらばらのフォント、様々の看板を掲げる店たち。
「カメラ屋?とか書いてあんのに、開いてみたら薬局みたいなとことか。あーなんか、商店街あんだけどね」
青い鉄橋を走る車。その下を伸びていく線路。
「なんか、あとなんだろうな。やたら古い建物がちょこちょこあんのに、ちゃっかりチェーン店とかもあってさ」
タイルの道。傘を差して歩く、この街の人々。
「うん、なんか……うん。そんな感じ」
絶え間なく口を動かし、目で景色を追い、それを手で描き、さらに頭のなかでは課題の構想を練っている。彼は案外不器用だ。柔らかい鉛筆の線と、彼がこの街について困ったように語る声音はよく似ていた。素直になれないのは彼の昔からの性質なのに、その不機嫌に包まれたものに気が付けなかったわたしも、実はけっこう不器用だ。
「あ」
ふと、亮が声をあげる。
「あれだ。見えた」
彼が指を指した先に建物の頭がある。方向が違ったのか、庭やら水やらは見えなかった。
「なんか微妙だろ」
亮は笑って肩を竦めた。わたしもそれを眺めながら頷く。
「特別変わってるって感じじゃないかもしれないけどね」
観覧車が回る。窓に着いた水滴が、気が付いたら流れていない。空は相変わらず曇ったままだけれど、雨が止んでいた。
観覧車の高度が下がる。濡れたコンクリートの地面が近づいてくる。亮がスケッチブックを畳んだ。けれどそれをリュックにしまわないでいるあたり、降りたらそこでまたなにか描くつもりなんだろう。たぶん、大したことない、なんて言っていた、こじんまりと愛らしい光景を。奇抜さには欠けるかもしれないけれど、なにかどこかあたたかい景色を。
きっと、彼が好きなその街の一部を。