品川駅の改札でブザーがなり、自転車とぶつかっただけで、まだ何も見てもいない。うなずけるわけもない。おばあさんは私の表情を読み取って、ちょっと残念そうな顔をした。
「竜宮童子に会わせてあげたいね」
店員に呼ばれて話が中断した。蕎麦を取ってカウンターに戻り、真っ黒な出汁を見下ろした。これな、と心の中でつぶやいた。金色の出汁でもなく真っ白なうどんでもない。
「まあ食べな。話はそれからだ」
どれ、とすすってみるとなかなか歯ごたえがあって美味しい。春菊の天ぷらはサクッとはいかなかったけれど、口の中でふわりと香りが広がる。なかなかやりよるな、と私は全部食べきった。
お茶かお水か聞かれ、どっちもと答える。おばあさんはセルフの水とお茶を持ってきてくれた。水を一気に飲み、お茶をすすったところで、おばあさんがさっきの話を続けた。
「ここらへんはさ、黒湯が有名でね。そりゃあ風邪なんかすぐに治っちまうくらいいい温泉だ」
ちょうど行こうと思っていたのだ。私はうんうんとうなずいた。
「で、竜宮童子はそこにいるん?」
満腹ですっかり気分がほぐれた私は、敬語を忘れて興味を示した。おばあさんはにたりと笑い、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「浴場と湯沸かし所をつなぐ扉にね、小窓があるんだ。運がよけりゃ竜宮童子が顔を出すんだってよ。会えりゃ幸せになれるんだ」
「それ、いくしかないやん」
おばあさんが先に立ち上がった。私も勢いよく立ち上がった。空の食器を持ち、返却口でごちそうさまでしたと声をかけると、孫になった気分でおばあさんの後を追った。
私に家族はいない。育ててくれた祖母は、大学の卒業を見届けると他界した。彼女の教え通り公務員になったことは、本当によかった。休みがとりやすく自由がきく。大阪をつなぐ絆を失ってから、気の向くまま日本中をまわっている。将来に不安がないといえば嘘になるが、思ったところで仕方ない。三十歳になったときに悟ったのだ。そこに現れたのが笙だ。彼はエンジニアで、私とはまったく違う道に進んでいたし、家族にも囲まれて生きていた。彼との共通点は好きな音楽だけ、だろうか。彼は私と会いたくてライブが好きなフリをしてるんじゃと思うこともあったし、私が行けなくなったライブに一人で行ってる様子もない。だとすれば、彼と私をつないでいるものはなんだったんだろう。
駅から少し離れたところにある銭湯は、下町の民家のあいだに、堂々とたたずんでいた。下駄箱には木札のカギがついている。初めて来た場所なのに、懐かしい。ノスタルジーって不思議なもんやなあ。脱衣所では、アコーディオンと三味線の音色が流れていた。まさかここで聞けるとは。料金箱のついたドライヤー、網目の脱衣かご。時が止まったような空間に、もう何度もライブで聞いた音色がおりてくる。小さく首を揺らしリズムを取りながら裸になった。
ガラリと浴場への扉を開けると、おばあさんはもう湯舟から顔を出していた。確かにお湯が真っ黒だ。そして熱い、ものすごく。口をきゅっと結んで、一気に首までつかった。おばあさんが私を見てからかってきた。
「あついだろ」
「そお?」
両手でお湯をすくい、ざばっと顔にかけた。肌がしっとりとして気持ちいい。ふうっとおばあさんと同時に息を吐いた。隣で私は、すっかり孫のような気分だ。