そのとたん、彼女が首をのけぞらせたとおもうと、口をひらいてあえぎだした。その口とからどっと水があふれでてきたのは、その直後のことだった。
清子がうっすら目をみひらいた。そのとき彼女は、じぶんがどのような状況にあるかを知ったはずだった。その彼女がいきなり、上体をはねあげたとおもうと、啓二の胸にしがみついてきた。
他の連中にはそれは、溺れた恐怖におびえたうえでの行動とみえたかもしれない。しかし文代からみると、あきらかに清子はこの状況を利用して彼に抱きついたとしかおもえなかった。彼女が彼にしがみついている時間がそのときの文代には、永遠に続くかにおもわれた……。
飛行機はおおきく傾斜しはじめた。文代はことさら悲鳴をあげて、啓二の注意を引こうとしたが、いかんせん二人の位置が前と後に分かれていては、抱きつくわけにもいかなかった。
屋上の反対側には、観覧車がみえた。飛行機からおりると文代は、彼に観覧車に乗ろうとせがんだ。
「文ちゃん、こわがりのくせして、高いとこが好きなんだね」
笑いながら啓二は、彼女といっしょに観覧車乗り場にむかった。
屋上だけに、地上の遊園地にあるような大きな観覧車ではなく、ゴンドラの数も十もあるかないかのものだった。それでも文代は、啓二と二人だけになれるのがうれしくて、胸をワクワクさせながらゴンドラに乗り込んだのだった。
速度はきわめてゆっくりだった。ワゴンのなかにいると風にさらされるということもないので、それほど恐怖を感じる乗り物ではなかった。
「こわい、啓ちゃん、たすけて」
文代はいまになって、あのときの必要以上にこわがったじぶんの姿が、おかしくてならなかった。そしていまなら、あのときのじぶんの心理状態を、明確に説明することができた。啓二に優しく抱いてもらいたかったのだ。そして口づけも、してほしかった……。
抱かれることも、口づけの機会もけっきょく訪れることなく、観覧車はそのまま空中をひとまわりして停止した。
あれが私の、初恋と呼べるものだった。
それからのちも、叶う、叶わないは別にして、多くの恋愛を経験してきたけれど、なかでもそれが一番純粋と呼べる恋といえた。屋上遊園地にくる気になったのも、七十代で恋愛なんてこと考えたものだから、初心にもどるつもりで初恋の面影を、無意識に追い求めてきたのかもしれない。
としを重ねるにつれ、恋にはかけ引きが必要だとわかってきてからは、相手の気持ちのうらを読むすべもわきまえてきて、いわゆる手練手管を弄するようになった。
彼と遊園地の飛行機に乗って、こわがってみせていたころの、あどけないじぶんにもういちどもどれたら……
ふと文代は、いまは停止しているメリーゴーランドの向こう側から、こちらをみている見知らぬ男性の視線に気づいた。彼女がみると、二人の視線が、木馬のうえでひとつにむすびあった。
たったいま、過去のあどけないじぶんのことをおもいだしていたせいか、彼のそのまなざしもなんだか、子供のように邪気がないようにおもえた。
年のころは六十代か、きちんときこなしたスーツの体は、ここからみてもがっしりしている。彼がいつから、そこのベンチにすわっていたかは、客があつまるたびに音楽とともに回転する木馬にさえぎられて、文代にはさだかではなかった。