授業中の二人の様子は特に変化がなかった。マサトは相変わらずよく喋るくせに、彩乃が反応すると気まずそうに顔を赤らめる。彩乃は落ち着いている。二人のことで勝手に邪推を膨らませていた私は、甘酸っぱい気持ちでつい顔がニヤけそうになるのを我慢しながら授業をした。彩乃の合格は間違いない。ただ、マサトの方は要努力。そこは心配だった。
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塾のロビーと自習室には主要日刊紙がそれぞれ三部ずつ置いてある。生徒たちに新聞を読む習慣をつけさせ社会と世界に向けて目を開かせよう、という塾長の崇高な計らいだったが、残念ながら手に取って読んでいるのはほとんど休憩中の講師ばかりだった。ある日、地方欄で高校野球の東京秋季大会の記事を見つけて読んでみると、「好投手楊(ヤン)をようする都立蒲西高校はダークホース的存在」と書いてあって、思わずへえっと声が出た。大したものだ。
ヤンさんの息子が通う隣駅の高校は、その後、実際に準決勝まで快進撃を続けたが、またも夏の予選で負けた強豪私立高校に苦杯をなめさせられた。こんどは延長11回までもつれこんでの2-1のスコアだった。ヤンさん夫婦は大いに悔しがっていることだろう。想像するといたたまれない気持ちになって、その週は店に通うのをやめた。
受験生たちのあせる気持ちが時間の流れに加速度を与えるのか、いつの間にか新しい年が明けた。マサトの最後の模試の成績は合格率40%まできた。何とか間に合うかもしれない。
一月は行く。その一月の終わり、明け方まで授業のプリント作りをして寒さと眠気にくじけそうになりながら通勤時を急いでいると、商店街の入り口に横断幕が張られていた。「祝 蒲西高校甲子園出場」。あわててスマホで検索するとスポーツ紙のネット配信記事に「都立の星蒲西センバツ決定」の文字。そして、ヤンさん夫婦の息子がはにかみながらガッツポーズをして写真に写っている。記事を読むと「プロも注目の好投手楊は、140キロを超える速球に大きなカーブが武器。本紙解説者の松田昭二氏も『あのカーブは高校時代の工藤投手(現ソフトバンク監督)をほうふつとさせる』と絶賛」ときた。
その夜、ヤンさんの店はもちろん大宴会だった。新装開店のように店先には花が並んだ。「みなさん、ありがとう、ありがとね。今日は青菜と水餃子はサービスよ」
「この街は酔っ払いとかメチャクチャな人もいるけど、みんないい人ね」
ヤンさん夫婦は二人そろって目を潤ませながら客の一人一人と握手をしていく。
宴会の輪の中には彩乃と彼女の母親の姿もあった。彩乃はクラッカーを鳴らしてはしゃぎ、自分のことのように喜んでいた。