2
夏休みが終わり新学期が始まると、「はあ?宿題なんてやるわけねえシ」などとナメたことを言っていた塾の教え子たちも、授業中の態度が少しずつ真剣になって可笑しかった。塾講師のアルバイトは時給がいいので学生時代ずっとやってきたが、性に合っている。幸いこの塾でも生徒からの評判はまずまずで、今では集団授業を七コマ、講師一人に生徒二人の「個別指導」を六コマ任されている。なかなかに忙しい。水曜日の二コマ目はその「個別指導」だ。生徒の一人は四月からずっと教えている彩乃という中学三年の女の子。毎回宿題もきちんとやってきて、礼儀正しくて教えやすい。あまり自分から話すことはないが、私のつまらないダジャレにもよく笑ってくれる。もう一人は反抗期真っ盛りという感じの中学二年生の男子生徒の英語を見ていたが、新学期から大手の塾に移るとかで辞めてしまった。その男子生徒が退塾する際に、塾長から「なぜ辞めてしまうか心当たりはないか」と暗に責められたが、後日母親が「個別指導の先生はとても気に入っていたんですが、上位校を狙うにはやはり大手が…」とわざわざ菓子折りを持って私が控室にいる時間に挨拶に来たことで、塾長はしょげて何も言わなくなった。少子化で塾業界の競争は厳しい。
彩乃は私の知らない私立校を志望していた。彼女の模試の成績からすれば、偏差値だけでいえばもっと上の学校を志望してもよさそうに思えた。一学期の終わりに塾長とその話をしたら、意外なことを聞かされた。
「彩乃は実は不登校なんだよ。小学校の三年か四年からずっと学校に行っていない。フリースクールとうちに通って勉強している。よくある話で、イジメがあって行けなくなったそうだ。中学のときに不登校だった生徒でもかまわず受け入れる実績がある高校のなかで、彼女は一番学力の高い学校を志望している。去年、彼女のお母さんと一緒にあちこち学校を回って決めたんだよ」
この塾では講師の心得として、生徒に学校のことをあまり聞いてはいけないことになっている。特に女子生徒は人間関係が繊細なので、下手に触れない方がいいと。とはいえ、個別指導では、たいてい女子生徒は自分から勝手に学校でのことをあれこれ喋り雑談をしたがるものだった。しかし、そういえば、彩乃が自分の学校の話をするのを聞いたことがなかった。休み時間に他の生徒と会話をしている姿も見ない。私は彼女のことを単に控え目で大人しい生徒だと思っていた鈍感な自分を、恥ずかしく思った。
二学期の最初の授業、私は彩乃を前に少し緊張したが、彼女はいつもと変わりがなかった。相変わらず物静かだが、落ち着いた表情の内面に深い悩みが隠されているようには見えなかった。授業開始から十分ほど遅れて、新しいペアのマサトがやって来た。
「先生、わりい、今日からよろしくっス」
そう、今日からこいつなんだよな、と私は思った。ひょうきんなやつではあるが、真面目とは言えない。講師に対する敬意があるとも言えない。そんな生徒だ。当然学力も高くはないからヤキモキさせられる。マサトは携帯をいじりながら席に着いたが、彩乃に気づいてはっとした表情になった。