それは、1ヶ月程前の昼のこと、商店街の入り口でぼーっと立っている妻を見かけたとのことだった。梨華ちゃんが声を掛けると、家までの道が分からないと言ったそうだ。梨華ちゃんは不思議に思ったが、途中まで付き添って歩くと、突然妻は道を思い出して、1人で帰っていったという。
「ウメさん、道を思い出すまでは他人行儀な感じがして、少し変だなーとは思ったんだけど、途中で道を思い出してからはいつも通りのウメさんだったから、そこまで気にしてなかったんだけど…」
やっぱりそうか。間違いない。
「そうだったんだね…。助けてくれてありがとう、梨華ちゃん」
「そんな、私は全然…」
「妻は…少しずつ、そういう事が増えてくるかもしれない。その時は、また助けてあげてもらってもいいかな…?」
私は二人を見て、ふり絞った力でほほ笑んだ。
「え…、それって…」
「あぁ、たぶん…そうだと思う」
少しの間、静かな時間が流れた。
美津江さんはふっと息を吐き、潤んだ目をしながら、私の肩を勢いよく叩いた。
「…当然でしょ!何かあったら、いつでも頼んなさい!」
目頭が熱くなるのを感じたが、叩かれた勢いで、私は思わず笑ってしまった。
「ありがとう」
締め付けられた心が、店内に漂う珈琲の香りを胸いっぱいに吸い込むと、なんとも不思議な事に、少し落ち着いていくのが分かった。
私はぬるくなった珈琲を、ゆっくりと口に運んだ。
その日の夜、私は美鈴と話をした。美鈴も翔から話を聞いていたようで、なんとなく気付いていたようだったが、梨華ちゃんの話を聞いて涙が止まらないようだった。
頭では理解できていても、心が追い付かない。
感情はいつも、最後の最後まで後ろから追いかけてきて、私たちの心を引き止める。
「理解」という名の大人の行動に対して、本当にそれでいいのかと、少年のような心で私達に何かを訴えかけてくる。