12 霊長類ヒト科
『51――52――53――54――』
『54秒』だった。
『54秒』までは、スタジオもお茶の間も、健一の身体の揺れと電子時計のリズムがピッタリ呼応しているのを認知していた。
しかし『54秒』を過ぎた辺りから、健一のリズムに変化が現れた。実際それは一秒にも満たない、鼻をすするとか、咳をするとか、ほんの一瞬の乱れともいうべきものだった。
だが精確無比な電子時計の前では、人間のいかなる言い訳も通用しなかった。結婚三年目の夫婦のように、健一と電子時計のリズムに微妙なズレが生じ始めた。
さらに、健一という非力な霊長類ヒト科に悲劇が訪れた。健一はスタジオの空気、特に、傍らで見守っている和子の微妙な空気の変化に気付いてしまった。スタジオや和子が醸し出す空気感に『自分と電子時計にズレが生じた事』を悟ってしまったのだ。『空気が読める』という言葉があるが、これは人体の不思議というより他になかった。
こうなると、健一の集中は一気に切れた。今さら修正しようにも、それが一秒『早いのか』『遅いのか』見当がつかなかった。
『頭が真っ白になる』という表現があるが、健一にはあれが間違いであるように思えた。厳密には、『頭が溶ける』ではないか――。
電子レンジに掛け過ぎたグラタンのように、健一の脳みそはグニャっと溶けた。パニック状態の人間に、精確な時を刻む能力はなかった。
健一は助けを求めるように、目の前のボタンを押した。
停止した電子時計の表示が、何の幸せも呼ばない『76』という数字なのは、誰の目にも明らかだった。
あと一秒だった。
たった、あと、一秒だった。
13 父親の仕事
健一の失敗から十六年後。
今日がハンドベルの練習、最終日である。
大の大人が一週間も同じ動作をし続けたので、健一はどうにか最後まで演奏を終えられた事が二回あった。着実な健一の成長ぶりに、石橋家はようやく団結していた。美和に至っては、パソコンでハワイのお土産情報を何十枚もプリントアウトしていた。
しかし、そんな石橋家の電話が鳴った。
電話は『服部塗装』の親方からだった。
なんでも、職人の一人が仕事中に怪我をしたらしい。健一は今日、親方の計らいで仕事を休みにしてもらっていた。そんな親方は無理を承知で、急遽、健一に現場へ急行してくれないかと頼んできたのだった。
健一は怪我をした仲間の心配と、自分を休みにしてくれたのに電話をしなければならなかった親方の心情を慮り、出勤する事を即断した。
しかし子供達は猛反対した。和子こそ理解してくれたが、太一は「練習サボんのか! 一日くらい仕事休めよ!」と訴えた。
健一は、太一の口の悪さをたしなめて頬を引っ叩いた。太一は半べそをかいて、健一の部屋に向かった。
太一は健一の部屋で『諏訪高島城』のプラモデルを破壊した。健一が太一をもう一発引っ叩くと、太一は家を飛び出して行った。和子が追いかけようとしたが、健一が「放っておけ」と引き留めた。
健一は急いで仕事の仕度を整え、玄関で靴を履いた。
玄関に美和が来て「結局仕事なんだ。お父さんは家族の為に何もしてくれないんだね」と冷たく言って、二階の自室へ引き籠った。
本当は泣きたいのも、逃げ出したいのも、引き籠りたいのも健一の方だったが、子供達の事は和子に任せ、健一は仕事の現場へと急行した。