「ここは元が沼地なのさ。戦前なんて雨が降ったら、足が泥だらけになったそうだよ。だから垢抜けないのは、まあ土地柄だね。映画撮影所のあった時代は「蒲田モダン」なんて言われてたみたいだけど、今は昔だしな」
でもボーちゃんはカウンターに頬杖をついて、ふんっと鼻を鳴らした。
「違うね。ミチが、ぜーんぜんわかってないだけだよ」
ミチはムッとしてボーちゃんをにらんだ。
「どっぷり蒲田につかりきってるボーちゃんに、何がわかるのよ」
「そもそも、個性なんか必要かあ?」
「そりゃいるわよ。観光客とか来ないし、発展しないじゃん」
「別にいいでしょ、観光客なんか。第一、町がそんなに個性を追求してどうすんの?暮らしの場だよ、日常だよ。窓を開けたら小洒落た店ばかりなんて、くたびれちゃう。自由みたいで不自由だ。普段の生活はね、写真になんか納めなくていいの。町にとって大事な事は、もっと別にあるの。そんな風だから、ミチはジイさんに怒られたんだ。店を継ぐかの問題じゃないよ」
ボーちゃんが珍しく早口でまくし立てたので、ミチは博さんと顔を見合わせた。
「父さんがここで根を張ると決めたのは、俺たちのためなんだ。しがらみが嫌で逃げ出したくせに、いざ子どもができたら、拠り所を作ってやりたくなったんだって。そして蒲田を選んだ。何でだかわかる?多分ジイさんが、ZUZUを継いだ気持ちと同じと思う。なのに高校生のミチは、それをバッサリ切ろうとしたんだよ。頭にも来るでしょ」
「それは・・・」
ミチは口ごもった。確かに店を継ぎたくないというのは、口実だった。本当は家族や店、そして人々の絆。暖かいけどじっとりした重みが、その泥臭さが嫌だったのだ。自由で格好良い所へ行きたくて、おしゃれさと軽さが欲しくて家を出た。なのに、今も同じことで足掻いている。でも、それのどこがいけないの?何を求めるかは人の自由じゃない。ミチは心の中で毒づいた。
すると、黙っていた博さんがタバコの火を消した。
「なあ、ミッちゃん。ここは何でつながってると思う?」
「え・・・そりゃ家族とか、近所づきあいとか」
「違うよ、『蒲田を好きかどうか』、これに尽きるんだよ。おかしなもんだよなあ、ここの人は『蒲田』に惹かれてやってくるやつらを、誰だって受け入れちまうんだ。だからごった煮になって、いつまでたっても垢抜けない。だけどダサくても、おしゃれでも、ありのままウェルカムって、すごくないか?蒲田はミッちゃんが思うより、ずっと懐が深くて自由だよ。だからZUZUも他人が引き継いで、ここまで来たんだよ。そして4代目の店主はなんとバリ島出身だ!なあジダン」
すると、ジダンが両手に鉄板を持ってひょっこり顔を出した。
「そうですヨー。博サンが死んだらぼくがマスターだからネ。地味だけどこれもグローバル化だヨ」
そして、ミチとボーちゃんの前に鉄板をどんっと置いた。薄焼き卵の上でナポリタンがじゅうじゅう音を立てている。