「そんなのどうだっていいです。楽しかったですし、久々にワクワクできたので。……しばらく店は一人でやりますから。何かあったら電話ください」パイプ椅子をかたして去ろうとする俺に、浩司さんは「すまねえ」と静かに言った。
次の日の夕方、店番をしながら必死に台本を一人用のものに書き直していると、電話が鳴った。
「俺だ。さっき手術が終わったとこだ。あっという間で拍子抜けだよ」明るい声音が受話器から漏れる。
「良かったです。店もいつも通り暇ですよ。空が来て手伝ってくれてます」
「いつも通りは余計だ。夜に来客があるからよろしくな」
「誰ですか」
「代役を頼んでおいた。そいつと二人でやってくれ」
「え。今から代役なんてできるわけないじゃないですか。あと五日しかないんですよ」
「そいつなら大丈夫だ。じゃあな」そう残して、電話はぷつりと切れた。
ごめんください、と重厚な低音を響かせて男が店に入って来たのは閉店時刻の午後八時ぎりぎりだった。高価そうなスーツを着た重役風の紳士である。空も既に帰っており、店には俺一人しかいなかった。背が高く恰幅も良いその男がずんずんと奥に向かって歩いてくる様子には迫力があった。
「い、いらっしゃいませ」
「私は客じゃない。貴方が富和哲平さんですか」
「そうっすけど……」
「御堂浩司の代役で来た者です。時間がない。店を閉めたらすぐ稽古をしましょう」そのまま男は倉庫に入っていった。ここには来た事があるようだ。浩司さんの幼馴染なのだろうか。
男の勢いに気圧され、俺はせかせかと店の片付けを終えシャッターを閉めた。倉庫の中で、彼はジャージに着替えストレッチを入念に施していた。
「あの、お名前は」
「あっ。申し遅れました。マサキです、宜しく」笑みを浮かべた顔は、なかなかの男前だった。
「浩司さんとはどういうご関係なんですか」
「なんていうか。……昔の相棒、といったところですかね」その口ぶりに違和感があったが、何か事情がありそうなので穿鑿するのはやめておいた。年寄りには色々あるのだ。話を逸らすように再び尋ねる。
「芝居の経験はおありなんですか」
「ええ若い頃に。ブランクはありますがね。さ、読み合わせをしましょう」
彼の台詞回しは見事だった。浩司さん用のべらんめえ口調に戸惑っていた様子だったが、そこはさすがの経験者だ。上手く自分なりのアレンジを加えてこなしていた。これならたしかに「大丈夫」かもしれない。浩司さんが街のチンピラならば、マサキさんはさしずめイタリアのマフィアといったところか。中折れ帽子を被せれば、その口髭と合まって立派なボスの風格が漂うだろう。
「台詞は覚えてきますから明日は動きをつけましょう。今日と同じ時刻に参ります」そう言い残し、彼は颯爽と帰っていった。
急ピッチの稽古の日々はあっという間に過ぎ去った。本番前日は店を休業にし、1日中芝居に没頭した。マサキさんも仕事を休んてくれたようで、俺達は狭い倉庫の中でダラダラと汗を流し続けた。