「この、封筒に書かれている島津さん、っていう人に届ければいいの? 大学もぜんぜん余裕だし、いつでも行けるよ」
そう言って春菜は手に持っている封筒を大切な宝物を受け取ったかのように、そっと持ち直した。
祖母は少し目を伏せて「そう、島津さんに、届けてほしいの」と頷いた。
「わかった! 任せといて。あ、でもその待ち合わせ場所に私が行って、島津さん分かるかなあ?」春菜がそう言って少し悩んだ素振りを見せると、祖母は「大丈夫よ。春菜ちゃんは、おばあちゃんの若い頃に似てるから」と笑いながら、けれども、今にも泣き出しそうな震えた声でこう続けた。
「ねえ、春菜ちゃん。もしかしたら、島津さんも来られないかもしれない。そうね……ずいぶん前にした約束だから、忘れちゃってるかもしれない。おばあちゃんみたいに身体が思うように動かないかもしれない。春菜ちゃんを待ちぼうけさせちゃうかもしれないけれど、それでもいい?」
「それは、全然構わないけど……。島津さんって、もしかして、おばあちゃんの初恋の相手とか?」何の気なしに春菜が訊ねてみたら、祖母は少しだけはにかんだ。その表情はまるで少女のように見えた。
お願いね、と握られた手の感触を春菜は忘れることができなかった。2018年10月1日の正午に、屋上遊園地で島津さんと会う約束をしたのだという。
「おばあちゃんの昔話なんて、春菜ちゃんにはつまんないだろうから。初恋の相手というよりも、昔の知り合いよ」としか祖母は語ってくれず、島津さんという人が祖母にとってどんな相手なのか、はぐらかされて教えてもらえないままだった。
「おばあちゃんの知り合いで島津さんっていう人がいるの、お母さん知ってる?」
春菜は母親の夏子に聞いてみても「島津さん? さあ、ねえ……」と首をかしげるばかりだった。「春菜が知らないんなら、お母さんも知らないわよ」と嫌みでも何でもなく、さらりと母はそう言った。
春菜の両親は春菜が幼い頃に離婚していた。もともと母はキャリアウーマンで忙しく、ばりばりと仕事をこなすことが好きだった。もっとも、それが離婚の原因のひとつでもあるらしい。
春菜はほとんど祖母の雪江に育てられたようなものだった。小学校の参観日も二回に一度は祖母が顔を出してくれていた。母の仕事は出張も多くあり、土日の休みであっても、祖母に宿題を見てもらったり、お買い物に連れて行ってもらうことが多かった。母が忙しく、寂しいときもあった。けれどそれ以上に祖母の雪江は春菜のことを可愛がってくれた。
駅前に祖母と買い物に行っては、屋上プラザの観覧車に乗りたいといつもおねだりした。「お母さんには内緒ね」と言いながら、ふたりで喫茶店に入り、ホットケーキを食べることが春菜にとってお気に入りの休日の過ごし方だった。観覧車を見上げるたびに、祖母はいつも「きれいな観覧車ね」と消え入りそうな声で呟いていたことを、封筒を預かってから春菜は思い出した。けれども、幼いころの春菜には祖母の様子を伺うことなんてできず、興奮しているばかりだった。