「――大学を卒業して、春から社会人になりました」
「そう…。お母さんは一人であなたをこんなにも立派に育ててくれたのね。全部お母さんに任せっきりで、あなたに何もしてあげられなかったお父さんとおばあちゃんを許してね」
「そんな…」
「もう夜が明けるわ。私は病院へ戻らなくては。あなたも」
がちゃんと音がして男が外から観覧車の扉を開けた。加奈子の手を取って外に下す。降りてから、加奈子はもう一度振り返った。
「おばあちゃ――」
しかし、観覧車の中に老女はいなかった。観覧車の後ろには朝焼けの前の、夜と朝の狭間の、藤色の、ラベンダー色の空が広がっている。
「良かった、思い出したんだね」と男が言った。
「夏の夜は短いから、君ももう帰る時間だ」と言うと、加奈子を子ども向けの小さな電車の乗り物に乗せた。
「しっかり掴まって」
電車が走り出す。すごい速さだ。「待って――!」と加奈子は叫ぶ。男は笑顔で手を振った。乗り物はレールを飛び出し、屋上の金網を乗り越え、空に向かって飛び上がる。加奈子はぎゅっと目を瞑る。
次に目を開けたとき、加奈子は自分の部屋のベッドの上にいた。まるで小さな椅子に座っているかのように身を屈めて、ハンドルにしがみつくかのように手を強張らせて。その手の中にはしっかりと、灰色の羊のぬいぐるみを握りしめていた。
ぬいぐるみを鞄に付けて、加奈子は蒲田へ出かける。観覧車から見た、蒲田西病院。その前に佇んでいると、病人用の着替えを詰めてぎゅうぎゅうに膨らんだ荷物を持った細身の男が側を通り過ぎた。男は加奈子を振り返り、灰色の羊をじっと見て、尋ねる。
「君、どこで、それを…?」
加奈子はじっと静かに男を見つめ返した。自分と男が似ているのは分からない。けれど、男は藤色のワンピースを着た婦人にとてもよく似ていた。