「それもそうだよな……」光一は小さくため息をついた。けれど、すぐに首を左右に振って「いや、とにかく今日はちゃんと挨拶するっていうのが目的なんだし。酔っ払ってる場合じゃないな」と、決意を込めた言葉を口にした。
百合子の実家は築三十年になる戸建住宅だ。武田と石で掘られた表札がちんまりと掲げられている。あちこちガタつき始めている小さい家だけれど手入れの行き届いた、きれいな庭があった。庭がほしいと言ったのは植物を育てるのが好きな母の唯一の希望だった。家を建てる時に「小さくてもいいから庭が欲しい」と言って聞かなかったと言う。百合子が中学生の頃に交通事故で母が亡くなってしまってからも、百合子の父は何度もその話をする。「あの時の母さんの顔、すごかったんだぞ」と言っては笑い、「なあ、母さん」とお仏壇に向かって話しかけるのだった。
「ただいまー」
百合子は玄関の扉を開けた。がらがら、と古い家らしく音が鳴り響く。
「おお。おかえりおかえり」そう言って、百合子の父、正雄は廊下に飛び出してきた。いまかいまかと、舞台の脇で出番を待ち構えていた小学生のように勢いよく。
「柳田さん、初めまして。よくいらして下さいました。狭いですがどうぞ」噛まないように何度も練習していた台詞を無事に言い終えた父を見て、百合子はくすりと笑ってしまった。
玄関を上がってすぐ、向かって右側の部屋に光一は通された。その部屋は和室になっていて、小さなお仏壇が部屋のはしに置かれていた。お仏壇には百合子の母が笑っている写真が飾られている。
「これ、たいしたものじゃないんですけど、召し上がって下さい。あとお仏壇にお花をと思って」光一は正雄に手土産を渡す。正雄もすみません、気を遣っていただいてと深々とお辞儀をしてていねいに受け取った。
「花は、すぐに水をやらんといけませんから。楽に座って待っていて下さい。ユリはお寿司の用意してくれな。小皿並べておいてくれ」と言って、正雄は光一から受け取った仏壇用の花を優しく掴んだ。「花瓶花瓶」と小さな声で言いながら台所へと向かっていく。
「お父さん、昔はぜーんぜんお花なんて興味なかったんだけどね。お母さんが亡くなってからは、お母さんが大事に育ててた花を枯らすわけにはいかないって、本読んだりして勉強したのよ」百合子はそう言いながら、テーブルの上に出前でとった寿司のラップをはずしている。醤油を入れる小皿を並べたり、箸を並べたりとせわしなく動いている。光一はもぞもぞと姿勢を正して座っていたが、仏壇の置かれた位置から、庭がよく見えることに気がついた。ていねいに管理された庭は、風通しもよく植物も気持ちよさそうにみえた。秋に花をつけるバラがいくつか蕾をつけ、ほころび始めているのが光一の目に止まった。
正雄が花瓶を片手に和室に戻ってきた。光一が持ってきた花は花瓶にちょこんと収まっていていた。「きれいな花を持ってきてくださったぞ」と正雄は仏壇のそばにそっと置いた。
「お父さんが落ち着いてくれなきゃ、食事も何も、はじめられないわよ」百合子がそう言って、正雄に座るように促しつつ、光一をちらりと見た。光一も、百合子のその目線を受けて、これから始める挨拶を切り出すのはおれの役目だと、また姿勢を正して座り直した。