それからは返信が遅れないように気を付けるようにしたが、まるで履き慣れていた靴が急にきつくなったように感じられ、彼とどこへ行くのも何をするのも億劫になった。けれどそういう素振りは見せられないと思い、楽しいふり、美味しいふり、嬉しいふりばかりがうまくなっていった。いや、うまくなったと思っていたのは夏美だけで、付き合いが長いだけに彼にはすっかりバレていたのだ。
夏美にも、彼と一緒に過ごしてきた時間に価値をおきたいという思いはあった。けれど男女の関係に新しい味わいを求める気持ちが抑えられなくなっていた。彼を決して嫌いになったわけではなかったが、自分が望んで招いた別れだと夏美は気づいた。時間をかけて、じわじわと彼を傷つけてきた自分に対する嫌悪で、落ち込みが隠せなくなった。そんな夏美を心配した女友だちの紹介で、四つ年上の男性と会ってみることになった。すでに結婚していた彼女は「夏美は真面目過ぎ。一度くらい軽い気持ちで付き合ってみなよ。私がうまく言っておくから」とすすめた。いい人だとは思ったけれど、ちょっと違うな、とふた月ほどであっさり別れた。が、幸いそれが冷静に男性を見極める力を与えてくれたと彼女に感謝している。十代から二十代にかけての“経験”としての恋愛と、“成果”を求められるこれからの恋愛は別なのだ、という考えにも行きつき、恋の階段くらい何度踏み外してもどうにかなる、という開き直りが生まれた。その代わり、結婚も含め、人生の階段だけは自分の意思を持って登りきらなければ、と思い始めた。
初めてホッピーを飲んだ日から十年も経っている。仕事上の失敗も成功も経験した。男女に関わらず人間関係の難しさも身に沁みた。自分の愚かさを認める勇気も少しは持てている。
少なくともあの日の私よりは、今日の私の方が間違いなく人として成長している。ひいては断然いい女になっているはずなのだ、と年下の高木のよく手入れされた眉を見つめながら、夏美は自信を持って思い込むことにした。
ホッピーの白のセットが二人分運ばれてきた。焼酎には氷が入っていない代わりに、ジョッキは霜で真っ白くなっていた。いわゆる“3冷”という飲み方だ。元彼と何度目かに行った居酒屋で、隣のテーブルにいた中年サラリーマンのグループが「これが旨いんだよ」と得意げに教えてくれたことがあった。
「氷入ってないんですね」
と言った高木に、
「これがおいしいのよ」
と思わず口にしたあと、しまった、と思った。
「夏美さんは、ホッピー飲んだことあったんですね」
「ああ。まあね……」
夏美は会社の飲み会でホッピーを飲むことはないし、同じ部署の女性たちもビールのあとは大抵、サワーかワインを飲んでいたので、高木には女性がホッピーを飲むイメージはなかったようだ。夏美がいつ、どこで、誰にホッピーを教えてもらったのか、高木はたずねなかった。夏美にも、今ここでホッピーとの馴れ初めについて語る義務はない。語らないことこそが十分に語っていることにはなるのだが。
暗黙の了解を経て、高木は明るい声を上げた。
「夏美さん、お誕生日、先週でしたけど、おめでとうございます。乾杯!」
「ありがとう、乾杯!」