と夏美がドリンクメニューを手に取った時、BGMが変わった。今、いちばん流れてほしくない曲
だった。
「夏美さん?」
「あ、ごめん、ごめん。高木君は?」
と夏美が質問返しをすると、
「僕は、ホッピーセットにします」
と高木は言った。夏美はドキリとした。
「夏美さん、知ってますか? ホッピーって白と黒があるんですけど、」
知ってる、という言葉をのみ込んで、夏美は高木を見上げた。
「僕は白派なんです」
「あ、そうなんだ。じゃあ、私も同じので」
どこかで見た、いや、経験した光景だった。
違うのは、頼んだホッピーが白ではなく、黒だったことだけ。
BGMはサビに入ろうとしていた。元彼との初めての夜、流れていた曲だ。
元彼とホッピーを飲むときは決まって黒だった。彼とは大学一年の夏頃から付き合い始めた。ずっと女子校に通っていた夏美にとって初の彼氏だった。
夏美の二十歳の誕生祝いに、彼は夏美を新橋の居酒屋に連れていった。なんでこんな店? と正直がっかりしたけれど、そのときはまだお祝いしてくれる嬉しさの方が勝っていた。一足先に成人していた彼がその店で、「ホッピーって知ってる?」と夏美に聞いた。
そのころ彼は引越屋のバイトをしていて、ひと回り年上の先輩から教えてもらったのだと言った。「ホッピーには黒と白があるんだけど、俺は黒派なんだ」
最初に教えてくれた先輩が黒派だったことが影響して彼も黒が好きになり、その余波で夏美も黒を飲み続けることになった。白も試してみたいな、とチラリと思ったことはあったが、なんとなく口に出せないまま月日が流れ、元彼と別れたのは二十六歳の秋だった。
当然、結婚も意識していたが、長すぎたなんとやらで、彼が福岡への転勤の内示を受けたという話を機にプロポーズするのかと思えば、別れを切り出された。その前から、互いによそ見をし始めたな、という自覚はあった。互いに、というのは嘘か。そこには明確な時差があった。
大学を卒業し、就職して三年目に入った頃、夏美の中で、彼からのラインの優先順位が下がり始めた。ある日、ラインに気づいていながら、お気に入りの服のブランドから届いた“メルマガ会員限定セール”のお知らせを先に開いてしまい、そのまま新作商品一覧をスクロールし、めぼしい商品を注文しているうちにすっかり返信を忘れてしまった。それはものすごく彼の機嫌を損ねた。