息子の海斗が三歳になり、少しずつ自分の意思や感性といったものが芽生えてきたのを感じると、僕はじいちゃんの海を見せてやりたくなった。
あの大きくて美しい海を
七十七歳になっても、じいちゃんは漁に出ながらひとり暮らしを続けているが、それでも以前と比べて随分と年老いたと感じさせられる。顔に深く刻まれたシワ、少し曲がった腰、薄くなった頭髪。それでも変わらないのは、気の強さだった。
「わしは最期までここで過ごすから心配いらん」
「老人ホームてのもあるよ」なんて、野暮なことを言ったものだと反省した。返ってくる答えは容易に想像できたはずだった。
「海斗、散歩でも行くか」
人見知りの海斗は、僕の背後から顔を覗かせながら小さく頷く。
「よし、じゃあ準備しよう」と、じいちゃんが台所へ向かった理由はすぐに分かった。
「お前もいいだろ」と、その両手には冷えたジョッキが握られている。
「相変わらずやね」
僕はその姿に安心した。
久しぶりに見る海は、あの頃と何も変わらない。仕事に忙殺される日々は、まるでこの世界とは別のところで起きていることのように思えるほど、波は穏やかで静かだった。
よく冷えたホッピーと心地良いそよ風。じいちゃんがこれを至福の時とする理由がよく分かった。
僕たちは何も語らず、ただ大きな海と、そして打ち寄せる波にはしゃぐ海斗を眺めて過ごした。
「海斗!家まで競争するか!」と、飲み終えたジョッキを砂の上に置き、じいちゃんはゆっくりと立ち上がった。
「うん!」
「よし!よーい、どん!」
僕はかけ声と同時に手を叩いた。勢いよく無邪気に駆け出す海斗と、それに遅れ、砂に足をとられながら走るじいちゃんの後ろ姿を僕は見守った。それは、まるで二十年前のじいちゃんと僕の姿を見ているようだった。
海斗とじいちゃんの差はどんどんと広がり、しばらくするとじいちゃんは走るのをやめて歩き始めた。
「じいちゃん、早く!」
振り返って叫ぶ海斗に、じいちゃんは小さく右手を挙げて応えたが、肩で大きく息をするのが分かった。僕は砂浜に倒れたジョッキを拾い上げると、少し早足でじいちゃんに追いついた。
「年をとったもんだな」
じいちゃんはそう呟くと、僕の右腕をそっと掴んだ。その手の感触は、小さく、そして弱々しかった。
「海斗は良い顔してる」
「じいちゃんのひ孫だからね」
「そりゃそうだな」
僕たちは顔を見合わせて笑った。
翌年、じいちゃんは足を骨折した。船に乗り移ろうとしたとき、足を滑らせて転倒したのだ。大腿部の頚部骨折というやつで、高齢者に多い骨折だそうだ。手術を受け、一ヶ月程の入院で退院予定だったが、医師からは漁師を引退することを勧められた。