杉本さんが、目の前のカウンターに立っていた女将さんに「俺と同じものをこいつにも」と言った。
女将さんが、黙って、ジョッキに焼酎を注ぎはじめた。
どんなときでも、杉本さんは部屋に響き渡るくらいの大きな声で笑う。俺が「超ガハハ笑い」と名付けた豪快な笑いが、今日はまったく出ない。
様子がおかしい。いつもの杉本さんではなかった。
杉本さんは、俺が職場で最も尊敬する先輩だ。
俺たちはかつて、本社の経理部で一緒に働いていた。仕事上のミスが多い俺は、上司によく怒られた。そのたびに杉本さんは、俺のことをかばってくれたり、優しく慰めてくれたりした。
落ちこんでいると、杉本さんは「浅井。こういう日は、酒でも飲んで忘れようぜ」と言って飲みに誘ってくれた。
初めて連れていかれたのが、杉本さんにとって昔からの常連だという澤田だ。恥ずかしい話だけれど、この澤田に来るまで、俺はホッピーという飲み物をまったく知らなかった。
杉本さんは趣味が多く、物知りで話題が豊富だ。俺の話をよく聞いてくれるし、仕事やプライベートの悩みを相談すると、的確に答えを返してくれる。ホッピーを教えてくれただけではない。俺にとって、実の父母よりも信頼できる存在だといっても過言ではないのだ。
そんな杉本さんの身体の異常に、黙っていられるはずがない。
心配で、ホッピーを飲むどころではなかった。
「杉本さん」
「なんだよ、急に改まって」
「前回に会ったときより、痩せているように見えます。今日の杉本さんは、元気がありません。なにかあったんですか?」
ストレートに訊いてみた。
俺の質問を無視するかのように、杉本さんはジョッキを持ち上げてゆっくりと一口だけホッピーを飲んだ。
いつもなら、大声で笑いながら言葉を返してくれるのに。
女将さんが俺の目の前に、ホッピーの瓶1本と焼酎の入ったジョッキを置いた。いつもなら間髪をいれずに、ジョッキにホッピーをなみなみと注ぐところだが、俺はそれに手をつけることなく、杉本さんの様子をうかがった。
「浅井。おまえは相変わらず鋭いな」
杉本さんは、ニヤッと笑って独り言のようにつぶやいた。
頻繁に会っている人間なら、彼の異常に気づくだろう。決して俺が鋭いわけではない。
「今日、呼び出したのは、おまえに直接会って話しておきたいことがあるからだ」
普段はあまり見ない真剣な顔を向ける。重大なことなのだろうと、俺は察知した。