水口さんの息子、水口昊はクラスメイトと喧嘩をして相手に怪我させた。担任からの呼び出しだった。面倒なことになるといけないので叔父ということにしてもらった。水口さんから担任に電話を入れてもらい、学校へと車を走らせた。
昊君の引き取りはスムーズにいった。いつもは突っ張っているが、さすがに神妙な態度だった。叔父だといって現れた管理人を、否定もせず黙って合わせてくれた。
昊君を車に乗せマンションに向かう途中、喧嘩の理由を聞いたが何も話してくれなかった。担任の話では相手が昊君の母親の悪口を言ったために喧嘩になったという。先に手を出したのが昊君であり、怪我もさせているので謝りの電話を入れてほしいと言われた。怪我は大したことはなったようだ。
水口さんに担任から聞いた話をかいつまんで伝えた。水口さんは「そうですか」と短く答えた。
管理室に戻ると、水口さんから電話があった。今日のお礼を言われた。体調が悪いときに気を使わなくても大丈夫ですよと答えると、水口さんは堰を切ったように話し始めた。
「昊は喧嘩の理由を言いません。でも分かります。たぶん私の職業のことです」
母1人で子育てをする家庭には貧困のイメージがつきまとう。だが水口さんにはそれがあまりない。豊かというわけではないが普通の家庭の生活に見えた。別れた夫から昊君の養育費が入っているのかもしれない。だがそれだけではないようだ。
水口さんは葬儀場で働いていた。精神的にハードな仕事だが勤続年数は長い。中規模の葬儀会社で水口さんは頼りにされ、賃金も優遇されているという。普通は会社員ということで通していた。管理人室にある名簿にも会社名が記載されているだけだ。不愛想な昊君だが、母が懸命に働き生活を支えてくれていることは理解していたようだ。
家族がいない俺が、家族の抱えるトラブルの場に立ち会った。大したことをしたわけではないが、なぜか無性に嬉しかった。父親でも叔父でもないのに、その真似事をさせてもらった。わずかだが力になれた気がした。トラブルが起こると、目の前のことに必死に立ち向かう。それを乗り越えた時はきっと、家族の絆も愛情も強くなっているに違いない。家族を持つということは煩わしいことだけではないようだ。
昊君を迎えに「代わりに、行きますよ」と言ったときの、水口さんの嬉しそうな安堵の顔が蘇る。
翌日、昊君がホッピーを1ダース抱えて訪ねてきた。照れくさいのか、無言でホッピーを置きぺこりと頭を下げた。「それから、これ」と言ってポケットから小さなものを取り出した。栓抜きだった。
「じゃあ」と言って、もう一度ぺこりと頭を下げて出ていこうとする昊君の背中に、俺は声を掛けた。
「かたじけない、キンノスケ殿!」
昊君はちょっとの間立ち止まり、背中を向けたまま右手を上げ管理人室を出ていった。