辛いことだらけだった母親の看病から解放され、自分のためだけに時間を使えるはずだった。だが母が逝き、今たまらなく母ロスだ。母だけではない。人生の終わりが見え始めた54才の誕生日に、犠牲にしてきた人生のロスに打ちのめされている。こんな年になるまで遺したものが何もなかった。母を亡くし家族と呼べるものがいなくなった。妻も子もないのだ。
母1人子1人だった。最初の結婚は26才の時だ。結婚生活は1年ともたなかった。別れ際に妻が「あなたは結婚不適格者です」と言った言葉が今でも蘇る。忘れることができない。そうなのだ。自分でも分かっているのだ。結婚には向いていない。一緒にいて相手に気をつかうということができなかった。自分の考えややりたいことに没頭し周りを忘れた。それをどう直していいのか分からなかった。
歴史ものが好きだ。テレビは時代劇以外は観たいと思わない。これも嫌われた理由だ。別れた妻は時代物に興味がなく、あなたの趣味は偏っていると言われ続けた。
母親と二人暮らしのときは、許された。だが結婚生活を送るとはどうやらそういうことではないのだということを、別れのときに知らされた。たった1回の結婚だったが、一回で十分だ。結婚とは煩わしさを抱えることで、また失敗するに決まっている、もう結婚はしたくないと思った。
このマンションの管理人として働き始めたのは9年前のことだ。運がよかった。住居付きの管理人だ。24時間振り回されるのではないかと心配したが、時間外や休日で呼び出されることはほとんどなかった。住民意識の高い高齢者が多く、管理人業は思っていた以上に楽だった。
もうすぐ母の新盆がやってくる。最期まで息子の心配をしていた。今日は俺の54才の誕生日だ。誕生日を祝ってくれる人はなく、たった1人の誕生日だ。54才、誕生日など祝わなくともどってことはないのに、今年は1人の誕生日が無性に辛かった。
外で花火の音がする。近くの河川敷で行われれる恒例の花火大会だ。1階にある管理人室から花火は見えない。ジョッキに氷と焼酎を入れ、冷蔵庫でぎんぎんに冷やしたホッピーを持って屋上へ向かった。住民は立ち入り禁止場所だ。管理会社に知られたら面倒なことになる。だが今日はそんなことを考えたくなかった。
ホッピーは住民の水口さんからもらった。中学生の息子と二人暮らしのシングルマザーだ。息子が反抗期で困っているとよくこぼしている。
管理人をしていると住人からの頂き物は多い。特にこのマンションは年配者が多く、天井の電球の取り換えなどは高齢者にとっては危険な作業となる。だから頼まれれば進んで手助けをした。感謝されるし頼りにもされている。
夜の屋上は想像していた以上に爽快だった。頭上の暗闇で炸裂する花火の音は、ちっぽけな煩悩を打ち砕き母を亡くした心の隙間に流れ込む。
独り占めだ。誰にも邪魔されずテレビの音もない。地上の人の声も聞こえてこなかった。
大型の蚊が飛んでいるような音がした。暗闇に目を凝らすとプロペラの付いた小型のドローンだ。このマンションでは、近隣のマンション協定でドローンは禁止されている。明日にでも掲示板に張り紙を出さなければと思った。
夜風が気持ちいい。焼酎にホッピーを注ぎ、一人で乾杯をする。
「ハッピー、バースディー、俺」