「今日は仕事じゃないんでしょ? 何処かに出掛ける予定なの?」と母が今度はシンクの前に立ちながら訊いてきていた。
「夕方にね。それだけ。午前中は特に決めてない」
「旦那さんはどうしてるの? 真さんは」
「まだ正式に旦那じゃないって」
私は苦笑いしながら麦茶を取り出していた。それから食器棚からコップを出し、両手を塞ぎながらにダイニングテーブルの椅子をお尻でこじ開けて座った。
「真さんも昨日から実家に帰っているよ。家族で出掛けるって」
麦茶をコップに注ぎながらそう答えた。
「旅行にでも行かれるのかしらねぇ。良いわね、親思いの息子さんで」
「そんな旅行に行ける程の休み、真さんも取れないって。仕事が忙しいもの。親戚の家に挨拶に行くって言ってたよ」
「そう言えば貴方たち二人とも長い休暇なんて取ったことないんじゃないの? 偶には取れば良いもを。こんな時ぐらい」
「今はどっちも仕事が佳境。大事なのよ。私も今は外れる訳にいかないの」
「親としてはその“どっちも”が仕事と家族であって欲しいけどねぇ」 母は洗い物をしながら溜息交じりに言っていたようだった。私はコップの麦茶を一口含みながら、周りを見廻していた。
「お父さん、もう出掛けたんだ」
「そうよ。何時もと変わらずにね」
「もう退職なんだよね? それなのにこんなに早く行くの?」
「色々と引き継ぎ事項があるんでしょ。それにウン十年と続けた習慣はそうは変えられないって」
「……お父さんだって仕事が大事なんじゃない」
それを聞いて洗い物の手を止めた母が私に振り返って言った。
「大事なのは貴方たち。娘三人の為に今まで仕事を頑張ってきたんだから」
「はいはい、感謝してます」と欠伸と共に私は答えていた。
「まあ、確かに仕事好きってのは間違いないけどね」と母は笑って言った。
「でも……まあ……暫くはのんびりしても罰は当たらないよね。お父さんは」
水分補給して気分が落ち着くと、また眠気が襲ってくる。私はテーブルにうっぷしながら欠伸を繰り返していた。
罰が当たらない。本心からそう思った、父には。
長女である私が最後に結婚を迎えるのを機のように、父は早期退職を志願した。
それが今まで私達の為に頑張っていたという証明のようで有りながら、父を縛っていたのが私達なんだという罪悪感に近い思いも感じた。
父は本当に好きで今の仕事を続けてきたんだろうか?
そう思うのは、今の仕事を私が大好きでやっているからだ。