「お前は大きくなったらホッピーになれ。なあ、ホッピーみたくな」
小さい頃にたった一度だけ、父が私に言った言葉。
一回だけしか言わなかったのに、稀に思い出してしまう。
少しむさい印象の小さな駅に。
大きくない駅前の商店街にある、本当に手狭な居酒屋の中。
炭火から立ち昇る白い煙と、立ち込めて漂う煙草の煙の中。
電球の表面にへばりつくヤニと油汚れの光の下は、ほんのりと夕焼け色にも見えた。
私の前の歪な形の皿には、串から外された鶏の捏ねに鶏の皮。あと葱鮪の葱だけ外した鶏肉も。
タレが滴るほど塗られて黒々としていて。
横のコップに瓶に入っていた、真っ黄色なオレンジジュースが注がれている。
私の隣には父がいて。
しっかり冷やされ白くなったコップに、トクトクと黄金色と真っ白な泡を立てるホッピーを注いでいた。
まだ私が小さい頃。都心から離れた田舎街では、小さい子供が居酒屋にいても疎まれる事はなかった。
満席のカウンターに肩が触れ合って坐る大人達。ガヤガヤと賑やかな店内。
その間に小さくこじんまりと、ジュースの入ったコップを両手持ちする私。
でも嫌いじゃなかった。週末に偶に父が帰って来て、連れて来てくれる居酒屋が。
嫌じゃなかった。煙草に脂ぎった煙たい店内。騒がしい大人達の雰囲気。何よりそこの焼き鳥が美味しかったから。
そして何より印象的だったホッピーの飲む父の姿が。
楽しげに、本当に美味しいそうに。 その父が一度だけ、私の頭を撫でがてらに言った言葉。
――お前はホッピーになれ。
幼い頃でも、今でも、意味も理解せずに未だに思い出している。
寝巻のままに私はダイニングに入った。
母がコンロ前で何かを焼いている。水分が弾ける音。それを鍋蓋で塞いで、篭もった蓋に跳ね返っている音が続く。そうして母が振り返った。
「おはよう。随分と早いのね」
頭は掻きながら私は冷蔵庫の扉を開けていた。寝起きの水分が欲しかったから。
「もう八時だよ。何時もに比べたら遅いよ。おはよう」
ぐっすりと寝た割に、寝たりないとばかりに大きな欠伸をしながら私は答えていた。
本当によく寝た。懐かしい実家の匂いのお陰か。久し振りに帰って来たのに熟睡をしていた。