「あの椅子、分かったわよ」
「え、何が?」
「誰が作って、誰があそこに置いたのか?」
謎解きをする探偵のように母が言った。あの椅子はあの土地の持ち主が作り置いた。長い間放置していたお詫びだという。その間に小さな空き地では誰かが草取りをし、捨てられたごみを片付けていた。それが遠藤のお爺さんだったのだ。
お爺さんはあの椅子にどうどうと座ることができたのだと咲羽は思った。お爺さんのために作られたような椅子だったからだ。
「息子さんも奥さんも亡くなって、寂しいだろうなあ?」
咲羽がぽつりと呟くと、母が「遠藤さんには息子さんはいないわよ」と答えた。遠藤のお爺さんには娘がひとりいるが18才で留学のために渡米した。その後南米に渡り現地の人と結婚したという。
騙されたと思った。悔しさが込み上げてきた。
「でも奥さんを3年前に亡くしたのは本当で、ひとり暮らしも本当よ」
お爺さんの話は半分嘘で、半分本当だったのだ。
18才で外国へ行き、帰ってこない娘とはもう会えないと思っているのだろうか。地球の裏側へ嫁いだ娘を想いお酒を飲んでいたのだろうか。
会社から帰ると居間のテーブルの上に絵本「どうぞのいす」が置いてあった。厚い表紙の角は擦り切れ、少し色あせている。納戸の中から見つけたのだと母が得意げに言った。
表紙には「どうぞのいす」とひらがなで大きく書かれていた。その下にうさぎさんがいすに座っている絵が描かれている。小さないすの後ろには短い木のしっぽが付いていた。
絵本「どうぞのいす」をめくる。ロバ、クマ、キツネ、リスと出てくる。ロバは「どうぞのいす」と書かれた立て看板を見て、椅子の上にどんぐりを入れた籠を置いて居眠りをしてしまう。次に来たクマは「どうぞ」と書かれていたためどんぐりを全部食べてしまうのだ。でも後のひとにお気の毒と、自分の持っていたはちみつを籠に入れていく。
キツネ、リスも順に同じようにしていったため、ロバが居眠りから覚めると、籠の中はどんぐりから栗になっていたという話だ。
「どうぞ」の言葉の優しさを絵本にしたものだった。
冷蔵庫を開けると小さな茶色い瓶が6本入っている。母に訊くと「ホッピー」
という飲み物だと言った。これで焼酎を割って飲む人が多く、ビールの様な味わいになるのだと知った。ご近所さんからの頂き物だった。
咲羽は遠藤のお爺さんが言った、亡くなった奥さんはビールが好きだったという言葉を思い出していた。
「お母さん、ホッピー貰っていくけどいい?」
あらどうするの、と母が訊く。遠藤のお爺さんにおすそ分けすると咲羽が答えると「じゃあ、籠を用意しなくちゃね」と母が笑った。