椅子のある路地が近づくと、あの日の失敗を思い出した。自分は飲み会でお酒を飲みストレスを発散している。それなのに息子の亡くなった日に一人静かに献杯している年老いた父親に、若い娘が咎めた。そのことが咲羽を落ち込ませた。できるものなら顔を会わせたくないと思った。
咲羽の気持ちとは反して、椅子にまたあのお爺さんが座っていた。手には焼酎入りのグラスを握っている。横に一升瓶ともう一つのグラスが置いてあった。また昼から飲んでいた。お爺さんが椅子に座りお酒を飲むのは午後の3時ごろと決めているようだ。
息子の命日だと言った日から1ヶ月ほど経っていた。
お爺さんが咲羽を見た。このまま素通りできないと思った。咲羽は遠慮気味に訊いた。
「今日も、誰かの命日ですか?」
「今日は女房の命日だよ」
お爺さんが悪びれずに答えた。息子さんが亡くなり後を追うように亡くなったという。
言葉を返せなかった。こんな悲しいことがあってもいいのだろうか。どんな慰めの言葉も役に立たないと感じた。今は一人の生活で、午後になると家に居るのが寂しくて耐えられないと言った。
「女房はね、ビールが好きだったね」
こんな安酒しかなくてすまないと言って、椅子に置かれたもう一つのグラスに焼酎を注いだ。
ぼろぼろになった「どうぞのいす」の絵本は小学生が終わる頃までは咲羽の部屋の本箱に置いてあった。お気に入りだったはずなのに成長すると気にも留めなくなり存在さえ忘れてしまった。
子供向けの絵本だ、アンハッピーエンドである筈がないと思ったが、うさぎさんがいすを森に置いた後どうなったのか、ラストはどうなったのか、知りたいと思う気持ちが膨らんでいった。気になってしかたがなかった。
家に帰ったら探してみようと思った。
絵本「どうぞのいす」は見つからなかった。母に訊くと片づけのときに処分したのではないか、と人ごとのように言う。
何度も読んでくれた母なら覚えているかもしれないと思った。
「さあ、どうだったかしら?」母も頼りない。
母にお爺さんのことを話すと、遠藤のお爺さんではないかと言った。1人暮らしの老人はこの辺では遠藤さんだけだった。
遠藤のお爺さんは奥さんを亡くしてから急に老け込み、顏も変わってしまったのだという。咲羽が分からなくても無理ないわね、と母がため息を吐いた。
夕方、飲み会のため駅へと向かう途中で、再び「どうぞの椅子」の前を通った。遠藤のお爺さんはもう居なかった。
それからしばらくの間、陽の高いうちに家に帰ることがなかった。どうぞの椅子のことも遠藤のお爺さんのことも忘れていたある日、母が言った。