母がぱっと声を弾ませる。
「上司に勧められて何度か飲んだことがあるんだけど、おいしいよね」
「へえー、お酒の味がわかるなんて、スバルもずいぶん大人になったものねえ」
母が感心したように呟いてから、眩しそうに見つめてくる。
「懐かしいわねえ。父さんが昔よく飲んでいたのよ」
意外な言葉を耳にして、スバルは戸惑った。
これまで亡くなった父の話が食卓にあがることは滅多になかった。母がどう思っていたかはわからないが、スバルはなるだけ父について触れないよう意識的に避けていた。
母を困らせてはいけない。悲しませてはいけない。心のどこかでタブーなものとして捉えていたのだ。
「父さん、ホッピーが好きだったの?」
スバルは何のためらいもなく訊ねた。カチンコチンに凍結していた十四年という歳月が、パリンと割れた瞬間だった。
「ええ。父さん、そんなにお酒強くなかったから、うちでは滅多に晩酌しなかったんだけどね、外でよく会社の人たちとホッピーを飲んでいたみたいなの。たまに、ほろ酔い気分で帰ってきていたわ。だからね、今でも記念に飾っておいているのよ」
「へえ、そうだったんだ」
スバルはホッピーを飲む陽気な父の姿を思い浮かべて、くすりと笑った。今ならいろいろなことが聞けそうな気がしたが、頭の中でコツコツ築きあげてきた父親像が崩れて、新たに一から形作られていくことを、脳が反射的に拒んだ。
それきり口を噤んだままでいると、母が話題をがらりと変えてきた。
「最近はどう? だいぶ仕事にも慣れてきたころかしら」
母に心配そうに訊ねられて、スバルは信頼できる高橋係長のことや、互いに切磋琢磨できる同僚がいること、初めて任されたプレゼンが惜しくも通らなかったことなどについて、ユーモアを交えながら事細かく語った。けれど、プレゼンのテーマについては一言もしゃべらなかった。
「そう。職場の人たちにも恵まれているみたいで、よかったわ。これからもしっかりがんばるのよ」
母が安心したようにほっと一息ついて、紅茶を啜った。
実家から戻ってきてからというもの、ホッピーを飲む頻度はますます増えていった。近くの酒屋で箱買いしたホッピーが、冷蔵庫にぎっしり詰まっている。
仕事から戻ってくるなり、栓を抜いて、冷えたジョッキに一気に注いでいく。つまみは、父が好んで食べていたという、ビーフジャーキーとミックスナッツ。
父と晩酌しているような気分で、ゆったり一日を振り返ってみる。明日も頑張るぞと、意欲がみるみる漲ってくる。
それから、三か月後。スバルは重たいダンボール箱からホッピーを三本引き抜いて、旅行鞄に忍ばせた。
今日、十一月二十三日は、父の十五回目の命日だ。手土産に、うれしい報告もしっかり用意してある。三度目のプレゼンを勝ち取って、プロジェクトリーダーに大抜擢されたのだ。
トンネルを抜けるたび、視野が広がり、緑がより深く濃くなっていく。故郷の海が、遠くにくっきり見えてきた。