曲のニュアンスは乱反射するようにいろいろなジャンルが取り上げられていた。
「半音下がったキーを聞いてるとね、世界が転調するような感じになるんだよ」
いつだったか甚さんが言った言葉が耳の奥で甦る。
たしかに。こころにじかに触れてくる曲に出逢うと、どこか高い場所からすとんと落とされた気持ちになったり、上手にはぐらかされたりして切なくなる。
その仕組みは今でも不思議でたまらない。
甚さんと最後に聞いたのは、ラテンの<キ・エンセラ>だった。
その曲が流れてくると、一歩も動けなくなってしまってそのせつなとてつもなく、開放感のある場所へと逃げてしまいたくなる。
運ばれてきたケーキにフォークを入れたそばからおいしそうな弾力が伝わってきて、舌にのせた途端にクリームが溶けた。
珈琲を飲んだ後、ふたくちめにいこうかなって思ってるところ、なんとなく視線を感じた。海さんが見ていた。
「もう、なに?」
「いやいや。甚さんがね、あいつの物くってるところってなにかに似てんだよな」っていってたの思い出してたの。
「もう、あれでしょ」
「そう、あれあれ。犬がいっしょうけんめいの時の顔だって」
「失礼しちゃうよね」
「失礼なもんかい。あれはすっごいほめ言葉だよ、甚さんなりの。ほんとうにうまそうに無心で喰ってくれるから、おじさんうれしくなるのよ」
「わたし、嘘つくの下手なの、だっておいしんだもん」
「だね、知ってる」
って言った後、海さんは話のきっかけが欲しかったのか、もう今年で3年目だろう?はやいねって遠くをみる目で呟いた。
「芙蓉ちゃんがここに来てるってことは、今日は29日か」
甚さんがいなくなったのが3年前の12月29日だったから、なんとなくわたしは29日になるとここを訪れるのが恒例になっていた。
「でさ、今日は夜も来てみない?」
「夜も?」
「よかったら、甚さんとゆかりのあったみんなでさ大騒ぎしたいんだよね。だってあれだろうもうぶっちゃけるけど、甚さんはまだ死んだって決まったわけじゃないから、命日があるわけじゃなし。いなくなった日はどんちゃん騒ぎの日って決めりゃいいのよ」
海さんがあんまりきらきらした笑顔で誘ってくるので、夜も「風音」におじゃますることにした。
まだ西日のするどいアスファルトを歩いていると、空のどこからか街のアナウンスが風に乗って聞こえてくる。
灰色のズボンと白の開襟シャツを着た斜め掛けにした黒い鞄をさげたとあるひとりのおじいさんが、朝からずっと行方不明らしい。