玄関から狭い裏庭まで、遮蔽物が見当たらぬ長屋の間取り、丸見えの台所スペースの妻の背中に向けて、
「清美っ。飯の前に銭湯だ。雄ちゃんも連れて行くから・・・美子、由紀子にそう言いにいっておけ。常男、オマエも来るか?」
家庭電話の設置が進む中、共にまだ『呼び出し』だった両家間は、小学3年女子の駆け足でも片道所用3分の距離。
この瞬間、自宅では両親から絶対に与えられなかった、風呂上りのジュースの確約に、心の中で当時はまだその名称が周知されていなかったガッツポーズ。
そして雄一にとってそれよりも嬉しかったのが、信ちゃんおじさんと常男おにいとの『男同士の語らいの時間』だった。
自宅から2番目に近い銭湯は、置いている飲み物類の品揃えも違っていて、雄一のお気に入りは、牛乳瓶に大きな金属の栓という、珍しいりんご牛乳だった。
一般的な透き通った深いオレンジ褐色ではなく、フルーツ牛乳みたいな非透明な色合いと、その美味しさを表現する言葉が見当たらないこの1本を、この日も慈しむように。
そして夕涼み用のパイプ椅子を確保から、グビグビと喉を鳴らず信ちゃんおじさんの左手には、いつもの本日1本目のホッピー。
「かあーっ!風呂上りは誰が何と言おうとこれだな。雄ちゃん、ちょっと飲んでみるか?」
興味津々ながらも条件反射的に、何か誰かを恐れるかのように、首を左右に激しく振って後ずさりする雄一に、変わらぬ穏やかな笑顔の中にも、微かに複雑な表情がかくれんぼの信ちゃんおじさん。
「努力と言う二文字を知らない」
兄弟姉妹のみならず妻までがそう囁いた雄一の父親は、自身の知らない世界や出来ないことは、全て『悪』と片付けていた。
運転免許を持たない彼からすれば自動車は悪、酒が飲めないから嗜む人間も悪と、万事この調子の長男を、彼の両親である雄一の祖父母は
「にいちゃんは立派、雄一のお父さんは偉いんだよ」
そんな周囲の大人達の矛盾に気づき始めた雄一にとって、目線を合わせて自分の話に耳を傾け、色々なことを教えてくれる山口家は、自宅よりも大切な空間となり始めていた。
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それでも全てに甘えっぱなしとは行かないのが世の中。
今にして思えば、子ども心に突き刺さった、山口家の人達から届けられた幾つかの場面も、精一杯の配慮の上でのメッセージだったのだろうと、雄一の中では申し訳ない気持ちばかりが膨らんでいた。
銭湯から戻れば食卓には料理が並び、電気炊飯器も湯気を漏らしているも、もちろん雄一の座席は見当らず。
あるいは信ちゃんおじさんが持ち帰るお土産も、雄一の分だけ無かったとしても、これも当然のこと。
中でもハッキリと脳裏に焼き付いていたのが、雄一が自分の中で『マッチ箱事件』と密かに名づけて記憶し続ける、その後の自身の対人関係における教訓となっている、ある日の記憶だった。