静かに棺の蓋が閉じられ、一行は葬儀業者の斎場から、『山口家』の三文字をフロントガラスに控え目に掲げた、座席が余り過ぎる1台のマイクロバスに揺られ、所要時間片道小一時間の火葬場へと。
誰もがそれぞれ無言で窓の外の景色に視線を送り続ける中、雄一は無意識に長い間蓋を閉ざし続けていたらしい、幼少時の記憶との再会の時を過ごしていた。
2
当時の信ちゃんおじさん一家との想い出は、どれを取り出しても、嬉しさと楽しさ、そして最後は子どもなりに現実を確かめるさびしさのワンセットだった。
胸弾ませてのお邪魔から、お腹がよじれるほどに笑い続ける時を過ごせば、いくら親戚でも自身は他人だと教えられ、それでも精一杯お礼を述べて、そこから自宅への駆け足は、毎回ほどなくスローダウン。
下町の長屋街、不動産業なら徒歩5分表記の近距離ながら、小学校の校区は異なったため、当時の魔訶不思議な校則のひとつの『他の学校の子どもとは遊んではいけません』が理不尽なハードルだった。
それでも毎日はさすがにご迷惑ながらも、それに近い頻度で、学校から帰宅すればランドセルを放り投げるように目指した、山口家の小さな木造平屋住宅。
公務員の雄一の父は、座右の銘が「何もしなければ褒められずとも叱られない」と公言する、良く言えば超弩級の過ぎたる真面目、つまりは堅物で退屈な人物と周知されていた。
「あれもつまらん。これもくだらん」が口数少ない彼の口癖で、幼稚園から小学校と自身の世界が少しずつ広がる中、雄一は自宅が日々お通夜のような重苦しさに包まれていることに気づき始めていた。
近所に住むそんな父の両親すなわち祖父母も、長男の父だけを溺愛を越えた過庇護し続けていたらしく、お正月などに顔を合わせる親戚の大人達から、チクリとそうした仄めかしを聞かされ、
「お母ちゃん。長男教って何?」
悪気なく尋ねてしまい、周囲の空気に緊迫感を届けてしまった大失敗を、ようやく笑い話にできるようになったのは、果たしてあの日から何十年後だったのだろうか。
3
近所の工場勤務だった信ちゃんおじさんは、早ければ夕方5時半には帰ってくる。
「くっさあーい」
常男おにいと美子おねえのお決まりのお出迎えのひとことに、少しだけ躊躇しつつも一拍遅れて続くから、結果雄一の声だけが目立ってしまうのもお約束。
「おっ!雄ちゃんもすっかり我が家の子どもだな。だったら叱るのも容赦しないぞ。誰がクサいのか、もういっぺん言ってみろっ!」
口調だけ怒りモードのクシャクシャの笑顔は、どれだけ望んでも自分の父親には期待できぬと漠然と悟っていた、人と人とのコミュニケーションってヤツらしく、この僅か数秒間が大好きだった。
今にして思えば、これも夫婦の阿吽の呼吸ってヤツだったのだろう。