「あんまり、恋愛話が出なかったねえ」吹江が小声で悪戯っぽく言う。
「ああ。小山内は前に振られた彼女のことを引きずっててさ。って言っても、今はそれどころじゃなさそうだけど」前方では妹さんと小山内がなにやら盛り上がっていた。なかなかお似合いの二人だ。
「ヘッピーて彼女とかいないの。結婚はしてなそうだけど」
「してないよ。彼女も長いこといないなあ。寂しいもんですよ」
「いるよね。顔はかっこいいのに、絶望的にモテない人って」
「かっこいい」
「うん。あたし、小学校の時、好きだったし」
勇壮なファンファーレが頭に鳴り響いた。よくドラマであるやつだドラマであるやつだ。この再会をきっかけに、二人はちょっとした障害を乗り越えたりしながら愛を育んでゆくのだフフフフ。こんな時、どう返せばよいのだろうか。ドラマではなんて言っていたっけ。気の利いた台詞を発しようと俺は酔った頭をフル稼働させる。
「またまたまた。じょ、冗談はよしこさん」
「冗談なんかじゃないよ。だから似たようなアダ名をつけたんだもん。ヘッピーて考えたのあたしなんだよ。覚えてる」
ファンファーレの第二幕は、妹さんの声によって遮られた。
「お姉ちゃん、小山内さんが缶コーヒー買ってくれるって」小山内は悪いやつではないが、いつだって間が悪いのだ。
これ渡しとく、と吹江は別れ際、自分の名刺を差し出した。アパレルの仕事をしているというだけあって名刺もなかなか小洒落ている。半透明のプラスチック製だ。あたふたと受け取り、俺も自分のものを渡した。何の変哲も無い地味な名刺を、まるでラブレターでも差し出すかのような緊張感でもって。「また、よろしく」
改札口で二人に手を振りながら、隣に立つ小山内に呟いた。
「俺にもようやく、春が来るかもしれないよ」
「あからさまでしたねえ。羨ましい」
「お前は妹ちゃんと盛り上がってたじゃないか」
「え。……何言ってるんですか」
「まあいいや。もう一軒行くぞっ」その後の記憶はかなりおぼろげだ。翌朝自宅のベッドで目を覚ました俺は、床に脱ぎ散らかしたスーツの内ポケットを慌ててまさぐった。「夢じゃない」プラスチック名刺のひんやりとした触感は二日酔いの気怠さをどこかへ追いやってしまった。
次の週、出社して会社のパソコンを立ち上げると「また生ホッピー飲みに行こうね。妹がハマっちゃったようです」と吹江からメールが届いていた。仕事では決して見せない迅速さでキーボードを叩く。「是非。いつにしようか」
それから俺たち四人はちょこちょこと集まるようになる。場所は決まってししゃも屋で、ホッピーを呑むのが通例となった。吹江に対する思いが徐々に肥大してゆくのと裏腹に、気兼ねなく楽しめる飲み仲間、という心地好い関係性を壊したくない気持ちもあり、これといった勝負にはまだ出られていなかった。会うたびに、小山内は俺に向かって鈍感鈍感としきりに繰り返すが、吹江がまんざらでないことは、俺だって十分に分かっているのだ。ただ、なんとなく一歩踏み出すきっかけを掴めないだけだ。