僕はその言葉の奇異な感じに気持ちが追いつけなくて、親父が喋る度にその唇の動きばかりを眺めていた。パパ、おかしいな。なんかすっごくおかしいことになっている。美潮さんがいなくなっておかしくなったんじゃないかと。
これじゃ、この間幼稚園で先生が読んでくれた「あべこべ物語」みたいだ。女の子と男の子が入れ替わっちゃうあの話にそっくりで、まるで夢を見ているみたいだった。親父じしんは何も気づいてないみたいに、そのふしぎな口調は続いていた。唇をなんどもたしかめる。身体はいつもの親父だけど声は誰か他の人が親父の身体を借りて喋ってるんじゃないかと頭の中がぐるぐるしていた。
熱はないわね。お弁当はちゃんと食べたの? みせてみなさいとたすき掛けしていた紺色の幼稚園バッグから腕をくぐらせて外した。そこに置いてあった補助バッグの中のお弁当の中身を親父は確かめた。ちゃんと食べてくれたのね。おりこうさんと親父は僕の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
熱い掌だった。これはどこかの絵本の中の物語じゃないのか? 絵本を読む度に、このページの中に入り込みたいって思う気持ちが止められなくなることがあったけれどその感情にとても似ていた。
後になってわかったのは、美潮さんはその時屋久島を訪れていた。屋久島ひとりツアーなるぷち家出は、あの親父の口調と深く関わりあるものだった。
つまり親父がほんとうは女の人よりも男の人が好きであるらしいタイプの男だと美潮さんが知った翌日の出来事だった。
屋久島ツアーの少し前から親父には渚通りで美容院の店長をしている恋人ジョウさんがいた。ただ美潮さんが不思議なのは、そのことについて失望しているわけでも怒っているわけでもなかった。
ある日、何度目かの家出を終えた時美潮さんは打ち明けた。ベランダで本を読んでいた。「きらきらひかる」だった。ちいさなテーブルにはやっぱりホッピーが置いてある。
「凪だね。風がないと世界がしーんとしてどこにもいけないみたいな気持ちになってくるね、翔ちゃん。パパさんにね、恋人がいるらしいの。その人は男の人なんだけど、翔ちゃんどう思う?」って?
僕にとってそれは唐突でもなくて、まるで確認作業のようなものに近かった。
「それって、雨の降る日に親父が帰ってくると微かにメンソールのシャンプーやムースのいい香りがしていたことと関係ある?」
美潮さんは真っ赤に塗られたマニキュアにスカルのネイルアートが施された長い人差し指と中指に細い煙草をはさんでふうっと紫煙を吐いた。翔ちゃん、知ってたんだね。そうかそうなんだってじぶんに言い聞かせるように言って、僕の顔を焦げるぐらいにみつめた。
「生まれた時から源ちゃんと知ってるからかな? ぜんぶ許すっていう気持ちになるの。だってホームで育ったからふたりとも。ひとりどうしだったんだもん、美潮さんと源ちゃん。源ちゃんにジョウを好きだって打ち明けられた時、ふつうに女の人を好きになることに努力しなければいけない彼が、ちゃんとみつけてほしいひとにみつけられたんだって思った。それに源ちゃんには感謝してるの。ちゃんと翔ちゃんをふたりの間に授けてくれたしね。だからわたし、ゆるすの。あのふたりはしかたないもの。ふたりだけが繋がれる糸みたいなも
のを出し合って紡いでいくのよ。それって凄いことだと思う」言葉が喉の奥で立ち止まって出てこなくなって黙っていると、わからなくていいよ翔ちゃんは、って言ってふたたび細い紫煙を輪の形にはきだした。