ヨットの帆が動物の羽根みたいに煽りながら波の上で揺れている。潮の香りが鼻を掠める時、僕は翔ちゃん翔ちゃんって男の人ふたりに呼ばれてる声を聞く。ひとりは親父、青木源でもうひとりはひのってサンダルのウッドコルクのヒールをひきずる音を響かせた刹那消えてゆく声。この女の人は僕の母親、美潮さん。
エスカレーターの先頭に立つジーンズのちっちゃなお尻がかっこいいジョウさんは親父にしきりに何かを話しかけて笑う。時折僕の様子を振り返って見て微笑む。そしてジーンズの前ポケットからメタリックなブルーのキシリトールガムをひらひらさせて、声を出さずにいる? って訊ねる目。うんって声を出さずに僕が頷くと、その一粒の銀紙に包まれたガム2、3個がジョウさんの後ろにいる美潮さんの手に渡され、そのいつでも冷たい指先を持つ美潮さんから、僕の掌へと落とされる。
なんてことはない軽い運搬作業。伝言ゲームのように運ばれてくる粒ガム。
今あの日みたいに並ぶとするとこうだ。
エスカレーターの先頭はめそめそしている親父。中ふたりのジョウさんと美潮さんはいないから、僕は時々親父の肉体労働の賜物である背骨がやけに奥に引っ込んだ筋肉のもりあがった背中しかみていないことになる。
親父と美潮さんは僕の卒業式に離婚した。母の美潮さん、僕はちっちゃな頃から実の母親である彼女のことを美潮さんとさんづけで呼んでいた。
美潮さんは地域限定の地方新聞でライターをしている。たとえばおいしいパスタ特集なんかを企画した後、取材先でおいしかったお店に必ず親子3人で訪れて、ちゃっかり店のご主人のご厚意に甘える。
仕事から帰ってくると美潮さんは「今日ねお店で、ホッピーごちそうになったの」ってうれしそうに報告する。どういうわけか我が家では、ホッピーさえあれば万事うまくいくっていうそんな遺伝子が流れているようで、不思議だった。でも僕が子供の頃少しでもホッピーの壜に手をかけようものなら、ふたりして「おさけは」「はたちになってから」ってふたりは、はもった。
親父と美潮さんの仲は悪くなかった。むしろ良かった方だと思う。ただ、美潮さんは昔っからライフワークのように家出した。そして家出は5度目あたりでピリオドを打つことになった。
はじめて家出したと分かった時のことは今も忘れられない。美潮さんのその行為と引き換えに親父に変化の兆しの輪郭があらわになった日だったからだ。
幼稚園から帰ると千鳥格子の半ズボンのままキッチンのリノリウムの冷たい床にへたりこんで、暗くなるまで美潮さんを待っていた。でもどれだけ待っても美潮さんは帰ってこなかった。
暗くなってから親父が帰って来た時、電気もつけない真っ暗な部屋でまだ着替えてもいない、息子の姿を見て翔ちゃんなにがあったの? って狼狽えた。
身体をさするようにして冷えてるじゃないのこんなピータイの床に座りこんでたらお尻が冷たくなって大変なことになるじゃない、と聞きなれない喋り方をして僕のおでこに手を当てて熱を測った。