「そこから家族が生まれて、出て行くってことでしょう?養殖された魚が海に出て行くみたいじゃん」
「何それ」
てんちゃんがあまりにも能天気なことを言うので、私は思わず少し気持ちが楽になってしまう。
てんちゃんは、バス停の脇に出来上がった大きな水たまりの真ん中に飛び込んだ。てんちゃんが足をついても、水たまりは降ってくる雨を受ける同心円しか作らない。気にせず、てんちゃんは足元の水たまりを見つめていた。
「てんちゃん、昔から雨好きだったよね」
「そうだね。嫌いじゃないね」
匂いとかじゃないかな、と言っててんちゃんは笑う。今はなんかもう全然わかんないけど。向こうって雨降らないんだよ。変だよね。懐かしい感じがする。
「お母さんが『てんちゃんが降ってるよ』って言ってたからじゃない?ゲラゲラ笑ってすごい喜んでたじゃん」
どこからかの帰り道、三人で歩いている時ににわか雨に降られると、母親はてんちゃんが降ってきた!と言って走るのだった。逃げろ逃げろ。てんちゃんが降ってくるよ。身体が弱って歩けなくなっていたてんちゃんも、車椅子の上で雨を受け止めながら笑っていた覚えがある。
「違うよ。それ、せんちゃんだよ」と、妹は不思議そうな顔をして言った。
「お母さんが言ってたのは、線ちゃんが降ってくる、だよ」
「雨が止んだら帰っておいでって言われてたから、そろそろ帰るよ」と言って、てんちゃんは手を振った。まだ私の白く濁ったビニール傘の向こうでは、弱々しい雨が降り続けている。
「お母さんによろしくね」
まばたきの間にてんちゃんの姿はなくなっていて、そこには水たまりがあるだけだった。さらりとしたものだった。水たまりを覗き込むと、覗き込んだ私の間抜けな顔と傘が波に揺られながら映った。
家までの道、私は街灯から街灯へと渡っていく。等間隔で置かれた影を踏み越える。私の横をバスが通り越して行き、総菜屋の前で止まって乗客を吐き出した。
妹に会って、父親と暮らしている話を聞いたことを、母親に言おうかどうか悩みながら、私は家路を辿った。信じてもらえないだろうか。母親が私に向かって言い出すならまだしも、普段真面目な私が言うのだからきっと信じるだろう。霧をまとった、大きな団地が見えてくる。