私の幼い頃の落書き帳は、白い紙の端にちょいちょいと色が塗られているだけで、ちっとも面白くなかった。一方てんちゃんの落書き帳は、どのページにも描くというより抉るに近い力強さでぐるぐるとダイナミックな線が描かれている。後ろのページに跡が付くくらい。
私は今でも、白紙の紙を見るとそれを思い出して何も書けなくなる。絶望するくらい何も浮かんでこない。
母親が病気をしない人だというのは本当だ。でも母親の元気印が全部妹に行ったかというとそうではない。妹は生まれたときから身体が弱かった。でも、苦しそうに咳をしたり、赤い顔でぼんやりしていた次の瞬間にはもう笑っていた。
「点はよく笑っていた、よく笑ってから死んだ。一生分笑って死んだのよ」
時々私には、母の明るさがただただ浅はかに思えることがある。そうだねと同意したくても、どうしてもできないことがある。てんちゃんが本当に一生分笑って死んだとしたら、点ちゃんほど笑わないとは言え、それなりに生きながらえている私は、もうそろそろ笑わなくて良くなってしまうのではないだろうか。
そんな風に思っている私をよそに、妹は濡れない便利な身体を雨の中に晒して、にこにこと笑っていた。
「あそこ、マンション建ったんだね」
そう言って、てんちゃんは田んぼの向こうの、田舎に似つかわしくないタワーマンションを指差した。白くて細い、骨みたいな指だった。マンションは鳥避けなのか、何か鋭い光が明滅している。
「そうそう。あそこに住む子たちってなんか見た目でわかるんだよね。私立行く子多いし」
「そうなんだ」
何が面白いのか、妹はまた声を出してふふふと笑った。
「何で出てきたの」と私が聞くと、妹はにやりとしながら「ちょっと帰って来たくなっただけ」と言うのだった。
簡単に言うなあ、と私は思う。
妹は、あちらの世界で父親と暮らしているらしい。
「顔も見たことなかったから、最初は信じられなかったの。でも、身振り手振りがほんとにせんちゃんにそっくりで」
父親は妹が生まれる前に先立ったことを床に頭をこすりつけて謝ったという。涙を流し、てんちゃんのまだ小さくて細い身体を抱きしめながら、お母さんが寂しがるだろうなあと言ったのだと、父親の声色を真似ていると思しき調子で熱演した。今は妹を甘やかしまくって育てているらしい。やさしいよ、私たちのお父さん、とてんちゃんはいう。自分の家がないまま亡くなってしまった人たちに、家を作ってあげているのだという。あちらの世界にもそうやって仕事をしないといけない事情があるのだなあと頭の中で思っていると、妹はそれを見透かしたように「そんなことしなくてもいいんだけどね」と付け加えた。
私には父親がそれほど優しかったという記憶はない。おぼろげに浮かぶのは、今は自分のものになっている図面台に座って腕を組み、難しい顔をしている父だ。それは記憶なのか、それとも母に植え付けられたイメージなのか定かではない。
死後の世界でも、食後にすぐ寝転んだりすると怒られるのだろうか。食べた後の皿をすぐに片付けないと怒られるのだろうか。やさしい、という言葉を聞いても、そういうさもしい生活感に満ちたことしか想像できなくて、私は少し悲しくなる。私が作った料理を食べた後、すぐに寝転んでしまう母親の姿を思い浮かべたからだ。