五月になると度々、朝から嘔吐と過呼吸で会社を休むようになった。
マヒロが二歳の時に離婚して、専業主婦の生活から一転した。仕事は結婚前に働いていた会社にOB採用で決まったものの、定時で退社するような職場ではなかった。
マヒロは、保育園と実家の母に頼み、家に帰るのは八時すぎになるのもざらだった。それでも、二人でマンションに住み、贅沢をしなければ生活できる報酬をもらい、なんとなく、娘をちゃんと育てているような気になっていた。
私は、独身だった頃の仕事のやり方を知らず知らずのうちに、良しとしてしまっていた。子供がいるからという理由を嫌がり、遅い時間の会議も、残業もいとわなかった。
簡単に言えば、私は仕事で負けたくなかった。
離婚をした後、離婚したことが人から見ると人として欠陥であるかのような目で世間からみられていると思うことが度々あって、私はもうこれ以上自分をうしろめたく思いたくなかった。
仕事では同僚よりも一歩先、いや半歩先でもいいから前にいたかった。
だから、週末の休みにも家に仕事を持ち帰っては、マヒロがテレビを見てたり、昼寝をしていたりと、私と関わらなくてもいい隙間を見つけると、パソコンをパチパチうっていた。n
有難いことに、マヒロは私にまとわりついて困らせるような子ではなかったし、年齢の割に大人の感覚を持ち合わせている子だった。
去年マヒロが小学校に上がると、仕事はもっと忙しくなっていった。
「授業参観、私休めないからお母さん代わりにお願い。」
母は困った顔をして、
「子供の行事ぐらい時間休みもらえないの?マヒロが悲しむよ。」と言いつつ、離婚した娘の少しでも手となり足となろうと思っていたのだろう、母が代わりに学校の行事に参加してくれていた。
朝、私が過呼吸を起こした時にも、母は飛んできた。電話したのはマヒロだった。マヒロはぐっと涙をこらえて、冷たくなった私の足を小さい手で包んで、一生懸命さすっていた。
私が会社を休むようになり家にいるようになって、マヒロは今まで行っていた学童に行かずに、真っすぐ学校から家に帰ってくるようになった。
「ママ、大丈夫だった?」
と、息を切らせたマヒロは、玄関から真っすぐに私が横になっているベットに走ってきた。
母は、しばらくうちにいて、私を看病してくれたり、病院にも付き添ってくれた。
そんな中でも、過呼吸は何日も続き、私は自分の体が自分のコントロールできないところにいき、どうしたらいいものか途方に暮れてしまい、涙が溢れてきた。