「夏美さんはこの匂いが苦手でなぁ。最初『離婚』って聞いたときは、これが原因かと思ったくらいだで」
ははは、と父は目を細める。
メーカーも同じだ。この前自分も買い替えたばかりだからよく分かる。また胸がちくりとした。トイレの匂い以外にも、夏美はいったいどれだけのことを、紗希のために我慢してきたのだろう。
「紗希」
父の声が夏美のイメージに重なった。
「お帰り。よく帰ってきたね」
変わらない家族の香りが、紗希の思い出を撫でていく。
長かった夏休みも終わりに近づいている。
立ち寄ったいつもの薬局で、いつものように棚の奥に手を伸ばそうとして、紗希は思いとどまった。
癖のようになっていた。
店員の視線が今日も背中に刺さる。
「意味ないっすよ」
ぼそっとした声が隣の棚から響き、紗希は思わずきょろきょろする。刺さっていると思っていた視線は、防犯用ミラーに映った自分のものだった。
棚の向こうから声は続く。
「奥のやつ取ったって、意味ないっすよ」
そんなことは自分も重々承知――
「俺、定期的に並び替えてるんで」
えっ!? なにぃっ!?
「奥に置かれたやつ、可哀そうじゃないっすか。だから俺、順番並び替えてるんです。なんで、奥のやつ取っても意味ないんで」
「……すいません」
なんてことだ。これまでの自分の同情は、返って仇になっていたのだろうか。
見ている人はちゃんと見ている。
「こいつ、ずっと我慢してたんだよなぁ」
向こうに隠れた店員の、「よしよし」というつぶやきが聞こえてくる。
急いでかごに商品を入れ、逃げるようにして会計を済ますと、坂の途中で紗希は柔軟剤を買い忘れたことを思いだした。
なにやってんだろ……。
ふうっとため息を空に吐き出す。
すじ雲が流れる青空の中に、真っ赤なトンボが泳いでいる。