「お母さん。あのCMのやつ、買ってみいへん?」
テレビに映った「アースノーマット」を指さすと、母は言った。
「お父さんの買った蚊取り線香が家に沢山あるから、もったいないわ」
「使い切らな、お父さんがうるさいもんね」
そう言うと、遠くでゴホンゴホンと低い咳払いが聞こえた。気まずさで慌ててその場を立ち去ったことを改めて思い出した。
(私が言ったこと、覚えててくれたんや)
白くてツルツルした卵型の容器を手に取ると、水色のファンから微風が出て手のひらを静かになでた。父の不器用な優しさみたいだった。小さく呟いてタオルケットをかける。
「お父さん、この間はひどいこと言ってごめんね」
「グウ」
返事のような父のいびきに小さく笑う。ソファの上のタオルケットが三段腹に膨らんでいた。
マキの代わりに、私は同じ部活の部員と一緒に遊ぶようになった。転んだことがきっかけで仲良くなった友達は、マキよりは裕福じゃないけどずっと真面目で話も合った。また、留学の件は、マキの親が人脈を使って学校と交渉したという噂も生徒間で広まっていた。
(これからは、自然に楽しく過ごせる友達と付き合おう)
そう思うと肩の力が軽くなって、マキへの嫉妬も消えていった。
私の目に父の姿は一向に見えないまま八月下旬を迎えた。そんな中、夕ご飯の食材を買いに出かけた近所のスーパーで、新海先生と偶然出会った。
「先週、長女が生まれたんだ」と目を細めて先生は笑った。照れくさそうな顔に幸せが充満している。
「娘が可愛くて可愛くて仕方ないんだよ。今一番の宝物だね」
新海先生の笑顔を見ていると、祝福したい反面もの寂しい気持ちがした。
「そういえば、さっきここで神田のお父さんに会ったよ。油揚げをカゴ一杯に買い込んでたけど」
「え!?父のこと知ってるんですか?」
「うーん。実はさ……」
新海先生は父との経緯を細かく話してくれた。私が練習で転んだ日のあとで、父がこっそり私の様子を見にグラウンドに来ていたこと、娘をよろしく頼むと先生に何度も頭を下げていたこと。
「同じ父親になってよく分かったよ。神田のお父さんが、どれだけ神田のこと大事に思っているのか。あんまり器用じゃなさそうだから、伝わりにくいかもしれないけどな」
(お父さんのアホ。なんで言ってくれへんかったん?)
目の裏がじんわりと熱くなった。お父さんに謝りたい。心からそう思えた。
新海先生に、父は「寄る所がある」と言っていたらしい。私はスーパーから駆け出すと、自転車に飛び乗って出発した。不思議な神社を目指して坂道を上る。
(お願い、狐さん。お父さんがもしそっちにおるなら、私も連れてって)