(今の一体、何やったんやろう)
夜風が吹いて鳥肌が立つと、やっぱり家が恋しくなって、私は自転車を下り坂に向けた。
父の姿が私の目から見えなくなって、もう三週間が経つ。母や他の人には見えている父の姿形を、私は一切認識することが出来なくなったのだ。
あの奇妙な体験のあと、家に帰ると父が消えていた。母は最初、冗談だと取り合ってくれなかったが、私が本気だと分かると激しく狼狽した。
「親を困らせようって魂胆だろう。ふざけるのもいい加減にしろ」
父の声がリビングのソファから聞こえてきたので、確かにそこにいると分かった。声だけの父は空気と同じで、威圧感のかけらもなかった。
家族で色々調べた結果、どうやら地元に伝わる「狐憑き」のしわざではと思われた。大好物の油揚げを目当てに妖狐がしばしば人を騙して社に誘い込んだという話も、古くからあるらしい。あのお賽銭箱の中の赤く光る目を思い出すと、ゾッとすると共に大いに合点がいった。
ソファに座ろうとしたら父が先にいて足を踏んづけたり、テレビを消したら「まだ見ている」と近くで声が聞こえて驚いたり、この三週間で不便なことを嫌と言うほど味わった。
「お父さんがいるって、なんか分かるような目印つけへん?」
「そうやねえ、鈴なんてどうやろ?」
母が言うとすかさず、宙に広がっていた新聞がバサッと食卓に落ちた。
「人を猫扱いするな。まったく馬鹿らしい!」
透明のコップがふわりと浮かび上がって、ゴクッゴクッの音と共に中の牛乳が少しずつ減っていく。マジックみたいだな、と朝の風を網戸越しに感じながら思った。
その日の夜中、喉が渇いたのでキッチンに行くと、リビングのソファの方でズーズーと大きないびきが聞こえた。扇風機がソファの方を向いて回っている。
(お父さんてば、またお酒飲んでうたた寝してる)
寝冷えしないか心配だったのでタオルケットを持って近付くと、一匹の蚊がつぶれた状態のままソファの少し上で浮かんでいるのに気付いた。つぶれた蚊は父のいびきのリズムに合わせて上下に動いている。
(もしかして窓開けっ放し?)
リビングに向かった私は、開いていた窓の下を見て目をこらした。薄暗がりの中で小さな光が二つ点灯している。耳を澄ますと、父のいびきの影でジーッという微かな機械音が聞こえた。
(これって、私が前言ってた「アースノーマット」やん)
確か一週間前のことだ。