都心から、15分という処だろう、車なら。
とぎれとぎれに、コンビニとか、今では貴重な存在となってきた八百屋とかの、商店がある地域。そんな一角に、のぼり旗が、コミュニティラジオ局を知らせている。そして、建物の壁面に、珈琲スタンド。この看板が、かろうじて珈琲店の存在を、これも知らせている。建物は、木造の二階建て。左右に入口がある。まぁ、入口と言っても、ドアが一枚と、ガラス窓だ。丁度左右反対側に、ドアがあり、真ん中に二つの窓が並んでいた、そんな格好だ。右が、ラジオ局、左が、珈琲スタンド。
カウンター越しの、珈琲サイフォンで、珈琲を落とす祖父の嬉しそうな姿が、いつも見渡せた。茶色の木調の壁面が、珈琲というイメージとあっているのか、落ち着きは抜群だ。
そんな雰囲気が漂っていた。両親を、交通事故に巻き込まれ、あっけなく失ってしまった俺は、祖父母に育てられた。小学生の時だった。この珈琲店は、祖父の念願だった。
明治生まれの祖父が、ヒグマと共存する田舎から、道都のこの街の、呉服商店に丁稚に出てきたのは13歳の頃のことだ。故郷は、ハッカの大生産地で、先代のころには、大いに羽振りが良かったというのだが、一代で築いた巨額な財が、消え去るのも早かったという。
祖父は、子共心にも、俺は帝都東京に進学して、名の知れた大学の学生生活が、約束されている身だ、そんな風に、思っていたそうだ。
末は博士か大臣か・・。それが妄想であったことを、いやというほど、思い知らされる、こととなったわけだ。まぁ、そんなことから、丁稚として、帝都でなく道都に出てくることとなった。やがて見本商品を大きな風呂敷に包み背負い、汽車を乗り継ぎ、道内に散らばったお得意の呉服屋さんを定期的に訪れ、商談をまとめる行商が役目となった。まぁ、今風に言うと、地方周りのセールスマンを、長く勤めたわけだ。この地方回りは月の大半を占めていた。唯一の楽しみと言えば、街に帰り着いた数日の間、当時としては、とびきりハイカラな、ビルディンクの地下にあったという、珈琲店で珈琲を楽しみながらの洋菓子、この贅沢なわずかな時間を過ごすことだった。
いつか自分で、サイフォンで落とす珈琲を、その珈琲スタンドを、やりたい。それが、生涯の夢となっていた。そんな祖父の夢を、珈琲の香りとともに、父親は、聞かされていた。
父が口にした、祖父との匂いの思い出は、他にもある。
「くたびれて帰ってきた、じいさん、からはな、汗臭い体臭とともに、大切に背負ってきた、大きな風呂敷包みから漂う、見本商品が発する、繊維の匂いが、決まってしたなぁ」
父親が生まれたときには、晩婚の祖父は大厄年の42歳だったのだから、この頃は、既に50歳を越していたのだろうから、体力的には、結構きつかったことだろう。父親が、早世してからは、祖父の話は、もっぱら俺が聞き役だった。地方の町々を、回ってきたときのことだ。
「オオカミに追いかけられてよ」
オオカミは、その頃すでに絶滅していたと思うので、野犬の勘違だろうが。それくらい恐怖を感じたのだ。さらに、猛吹雪の真っただ中だった。追いかけられ付回される恐怖は、すでに極限状態になっていた。息も絶え絶えたどり着いたのが、ポツンと明かりが灯っていた一軒の番屋小屋だった。そこで食べさせてくれたのが「鍋壊し」カジカ鍋だったそうだ。その美味しいこと美味しいこと、この世にこんな食べ物があるのか、と思ったという。
鍋壊しぃー? 本州の人には、何のことやら見当もつかないだろう。津軽海峡からあちらを、ひとまとめに本州、と呼ぶ道産子は、いまだに多い。梅雨がなく寒暖の差が激しい気候がもたらす豊富で美味い食材、その王国としての自負心と、相反する一旗挙げての帰郷心のような残像とかが、混ざり合った呼び方なのかもしれない。そんな道産子でも、地元代表料理として挙げる人は少ないが、この「鍋壊し」、美味すぎて、箸で鍋底をつついて壊してしまうたとえに、由来するという。
「あの鍋壊し、地獄で仏だったさ」
祖父は繰り返し口にした。その時、この漁師は、祖父の差し出したお金を、絶対に受け取らなかった。そこで、祖父は見本として持ち歩いていた商品の作業着を、お礼として受け取ってもらったという。この話は、父からも何度か聞かされていた。祖父の大きな風呂敷に寄りかかり聞いていた父は、祖父の命の恩返しとなった、作業着から発せられる、繊維の独特のにおいと、この話を切り離せなかったと言っていた。晩秋のあの朝も、その匂いを感じつつ目覚め、必ず何がしかの土産が入っている使い古された旅行カバンに、父は、3つ違いの弟の叔父と、いつものように飛びついた。土産はなにも入っていなかった。