通りの反対側にいた母は駆け寄って声をかけようとして、思いとどまった。今更、呼び止めて、何を話せば良いのだろう。高子は元気に育ってますとか、再婚相手のおかげで裕福な暮らしを楽しんでいますとか伝えるのは、やつれて見る影もない人に残酷な仕打ちかもしれない。橘のイメージと香りが脳裏に浮かんで、母は父が視界から消えるまで黙って見送った。
母は共通の友人だった大学の同級生と連絡を取った。数少ない父の友人で父と同郷だった人だ。何年か前にきた年賀状に記されていた住所を教えてもらった。賀状には「書き続けているが公募を通らない」旨記してあった。
ずっと買い続けていた宝くじ、三等十万円が当たったばかりだった。母は散々迷ったあげく、私の写真と当たりくじを同封して手紙を送った。
突然の便り、失礼します。離婚直後に、長く願えば叶うと告げるおみくじを引いて以来、宝くじを買い続け、ようやく先日、末等以外が当たりました。万年筆で原稿用紙に買いてらっしゃいましたね。紙代の足しになればと思い、同封させていただきます。文才を信じております。不躾とは思いますが、高子の写真とともにお納めいただければ幸甚です。
まもなく、母に父からの礼状が届いた。
拝復。不躾どころか、明日の食い扶持にも困る有様で、本当にありがたかったです。高子には何ひとつ父親らしいことはしてやれなかったこと、我が身の拙さに恥じ入るばかりです。もう、連絡することはないでしょう。ご健勝をお祈りいたします。
君なくてあしかりけりと思ふには いとど難波の浦ぞ住み憂き
「その和歌、どんな意味なの」
「葦刈の話の最後で、別れた男が、食事や着物を恵んでくれた元の妻に詠んだ歌なの。
あなたがいなくて悪い境遇になってしまい、海辺で葦を刈るようなところまで落ちぶれてしまいました。この難波の浜辺での暮らしは、なおいっそう辛いです。
『今昔物語集』では、妻はこのことを誰にも口外しなかったと書かれているけど、結局は物語が伝わっているってことは、人にしゃべったのね。
高子には二人の父がいることは、嫁ぐ前にきちんと伝えようと思ったけど、手紙のやり取りがあったことは、墓場まで持って行こうと思っていた。でも、やはり人間は黙っていられないものなのね」
「その後は連絡したの」
「ううん。礼状に『もう、連絡することはないでしょう』と書かれていたから。その住所には今はもういないと思うわ」
「私の結婚式には呼べないってわけね」
「呼んだって来ないわよ。それに今の父さんに悪いし」
「そうね。母さんと前の父さんの恋は、葦刈に始まって葦刈に終わったのね」
風が出てきたのか、梢が揺れている。雨はますます激しく降ってきた。小鼓から大鼓へと雨音が増した。